序文・軍人vs政治家
堀口尚次
佐藤賢了〈明治28年 - 昭和50年〉は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。昭和11年、軍務局課員〈軍務課国内班長〉。昭和12年、砲兵中佐に昇進。航空兵中佐に任ぜられる。
昭和13年3月3日、“黙れ事件”を起こす。軍務課国内班長として衆議院の国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員〈佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉など〉より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸軍大臣により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。作家の半藤一利によれば、戦後のインタビューで佐藤は「国防に任ずる者は、たえず強靱な備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん。その備えを固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語ったという。
昭和20年8月15日終戦。 同年12月2日、連合国最高司令官総司令部は日本政府に対し佐藤を逮捕するよう命令〈第三次逮捕者59名中の1人〉。巣鴨拘置所に勾留された。佐藤は最年少のA級戦犯として起訴され、極東国際軍事裁判に出廷。出廷中は東条英機とともに軍服を着用し続けた〈少なくとも1947年8月まで。東条が詰襟であるのに対し、佐藤は開襟シャツ〉。終身刑の判決を受けて服役し、いわゆるA級戦犯では最も遅くまで拘留され昭和31年3月31日に釈放。その後は東急管財〈現・東急ファシリテーサービス〉社長を務めた。
また、自身の反米体験をもとにベトナム戦争反対運動に参加して話題になり、「共産党は無理だが、社会党の公聴会に呼んでくれないものか」と語った事もある。1965年8月のベトナムに平和を!市民連合〈ベ平連〉討論集会に講師として出席した佐藤は、アメリカを糾弾する演説で会場の拍手を浴び、アメリカが強気なのは「中ソ対立のすきをねらってのことと思われる」として、共産党代表の上田耕一郎(当時共産党政策委員会中央委員候補)に「中ソの対立をやめさすように、日本の共産党は、努力なさいませんか」と呼びかけた。開戦時の陸軍中枢においてアジアの植民地解放に最も熱心であり、死の直前まで面談者には大東亜戦争〈太平洋戦争〉は聖戦だったと主張していた。1963年『教養特集 日本回顧録 東京裁判』で、「私の有罪の決め手となったのはね、平時他国の領土に軍隊を置くということは犯罪的だという。どうです いったい。アメリカはその当時から今日に至るまで、世界各国に防共のために軍隊を置き、軍事基地を設けてるじゃありませんか。東京裁判の正体っていうのはこんなものなんですよ」と語っていた。
