序文・平清盛の甥
堀口尚次
平康頼(たいらやすより)は、平安時代の武士。信濃権守・中原頼季の子。官位は六位・左衛門大尉。後白河法皇の近習として北面に仕える。平判官入道と称された。
明経道の家柄である中原氏に生まれる。10代で平保盛〈平清盛の甥〉の家人となる。保盛は長寛元年越前国の国司に任ぜられているが、18歳の康頼も越前国に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は仁安元年尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した。
尾張国知多郡野間荘には平治の乱で敗走の途中に相伝の家人であった長田忠致によって湯殿で非業の死を遂げた源義朝の墓があったが、誰も顧みる者もなく荒れるに任せていた。もちろん、国司・保盛の許可を得てしたことであろうが、康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田30町歩を寄進した。この噂は京にも伝わり後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。また清盛はじめ平家一門の人々からも、敵将の墓を修理して保護した康頼を、武士の鑑として一門の名を高めたと好評判であった。任官と同時に上皇の近習にとり立てられ半月もたたない仁安4年1月に行われた、後白河上皇12回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられている。また嘉応元年4月に後白河上皇は平清盛と同伴で東大寺に参詣したが、康頼を含む7人の衛府役人が随行している。また、後白河上皇は今様を非常に愛好し、多くの公家や官人にも教えていたが、康頼も門弟の一人で、美声で声量もあり抜きん出た歌い手であった。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようである。承安4年北面の武士から検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した。
安元3年6月に康頼は藤原成親・西光・俊寛らとともに鹿ケ谷の山荘での平家打倒の密議に参加。しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。平家滅亡後、文治2年頼朝はかつて受けた恩義に報いた、父の義朝の墓を整備・追善した平康頼は天領阿波国麻殖保の保司に任ぜられ同じ平を名乗る二人の者が行動を共にした。平治の乱では頼朝〈十三歳〉や義経〈一歳〉は平保盛の祖母池禅尼に命を助けられている。愛知県美浜町の大御堂寺〈野間大坊〉には康頼の墓がある。
