ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1604話 親鸞は源頼朝の甥・説

序文・謎に満ちた生い立ち

                               堀口尚次

 

 親鸞〈承安3年 - 弘長2年〉は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。

 親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。内容の一部が史実と合致しない記述がある書物〈『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など〉や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物〈『御伝鈔』など〉によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

 承安3年に、現在の法界寺、日野誕生院付近〈京都市伏見区日野〉にて、皇太后宮大進 日野有範の長男として誕生する。母については同時代の一次資料がなく、江戸時代中期に著された『親鸞聖人正明伝』では清和源氏八幡太郎義家の孫娘の「貴光女」としている。「吉光女(きっこうにょ)」とも。幼名は、「松若磨」、「松若丸」、「十八公麿(まつまろ)」。兄弟全員が出家しており、母は源義朝の娘で、親鸞源頼朝の甥にあたるとの研究もある

 幼少期、平家全盛の時で、母〈貴光女〉は、源氏の各家の男子はことごとく暗殺されることを危惧していた。牛若丸が鞍馬寺に預けられたように、松若丸も同様に寺に預けられる運命だった。清和源氏源経基以降、五摂家藤原氏〉に仕えたが元を正せば天皇家の血筋でもあった。

 明治29年村田勤は『史的批評・親鸞真伝』「第十二章 系圖上の大疑問」において、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、親鸞が自らについての記録を残さなかったことなどから、親鸞の存在を疑問視し、架空の人物とする説を提唱した。続いて東京帝国大学教授の田中義成と國學院大学教授の八代国治が「親鸞抹殺論」の談話を発表した

 しかし、大正10年に鷲尾教導の調査によって西本願寺の宝物庫から、越後に住む親鸞の妻である恵信尼から京都で親鸞の身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状〈「恵信尼消息」〉10通が発見される。その内容と親鸞の動向が合致したため、親鸞が実在したことが証明されている

私見】愛知県知多半島野間大坊は、源頼朝の父・源義朝の終焉の地だが、関東から京へ帰る親鸞が祖父源義朝の墓参に立ち寄ったという伝説もある。