序文・冷酷残忍か敬意か
堀口尚次
反旗を翻した朝倉義景・浅井長政・浅井久政は、織田信長に敗れた。
天正2年正月、『信長公記』には、信長が内輪の宴席において、薄濃(はくだみ)〈漆塗りに金粉を施すこと〉にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある。『浅井三代記』でも、「長政の首と義景の首とを肉をさらし取朱ぬりに被レ成」〈長政と義景の首から肉を綺麗に取り除いて朱塗りにされ〉安土の翌年の正月の礼に参上した大名衆へ「御盃の上に御肴にそ出にける」〈宴会の酒を飲む際の楽しみとして出された〉と書かれており、漆塗りにされた頭骨が披露されたと考えられている。しかしいずれも髑髏(どくろ)杯にして信長が酒を飲んだとは書かれておらず、現在では髑髏杯は作り話とされる。
一部文献では、信長の久政・長政や朝倉氏に対する怒り・恨みの根強さを象徴したエピソードのように綴られているが、実際は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものである、とする説がある。
この信長の行為を桑田忠親〈歴史学者〉は「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。この桑田説に対して、桑田の弟子でもある宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり、今生と後生を合わせた清めの場で、三将の菩提を弔い、新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。
