序文・両国国技館に常設
堀口尚次
枡席(ますせき)〈桝席・升席・マス席とも〉とは、伝統的な日本の観客席。土間や板敷きの間を木組みによって人数人が座れるほどの四角形に仕切り、これを「一枡」として観客に提供したことからこう呼ばれるようになった。
勧進相撲として発達した大相撲は、その歴史的背景から各地の寺社の境内で不定期に興行されるのが常態で、長らく専用の競技場を持たなかった。江戸では天保4年以降にようやく本所・回向院での相撲興行が定着する。
劇場の場合とは対照的に、相撲興行の場から枡席は一度もその姿を消すことがなかった。明治以後も大相撲の開催地では、土俵も観客席も数日間の興行に耐えられるだけの仮仕立てで造ればよかったため、木組みで簡単に客席を仕切ることができる枡席はかえって好都合だったのである。
回向院の境内に初めて常設の競技場「國技舘」〈旧両国国技館〉が建てられたのは実に明治42年になってのことだった。この常設の國技舘にも枡席が導入され、しかもその後の相次ぐ失火や震災による焼失と再建の際にもそれを存続させたことが、枡席が大相撲の会場とは不可分の伝統として定着する契機となった。
昭和時代初期は相撲人気の高まりがあったが、升席の購入は相撲茶屋などの買い切りや契約者が優先され一般人が座ることは難しい状態となっていた。こうした不満を解消するため、昭和14年夏場所に開催日数を13日から15日に改めた際に、初日に限り「大衆デー」として升席の一般販売が行われるようになった。
戦時色が強くなった昭和16年の初場所の前には、警視庁が相撲協会、相撲茶屋関係者を招き、茶屋が升席をプレミアム価格で販売することの禁止、芸妓や女給の同伴禁止、飲酒の禁止などの自粛を求めた。ただし、女性同伴や飲酒は徹底されなかったようで、警視庁は同年末に改めて申し入れを行っている。國技舘は戦時中に陸軍によって接収され、以後大相撲は後楽園球場・神宮外苑の相撲場・日本橋浜町公園の仮設国技館を経て、昭和25年からは蔵前国技館で、昭和60年以後は新両国国技館で興行されるようになるが、これらすべての会場に枡席が設けられたのである。
