序文・山縣有朋の懸念
堀口尚次
宮中某重大事件は、大正天皇の皇太子・裕仁親王〈後の昭和天皇〉妃に内定していた久邇宮家(くにのみやけ)の良子女王〈後の香淳皇后〉の家系に色覚異常の遺伝があるとして、大正9年から大正10年にかけて元老・山縣有朋らが久邇宮家に婚約辞退を迫った事件である。天皇の血統を重んじる山縣らに対し、良子女王の父・久邇宮邦彦王や、皇太子や良子女王に倫理を教えていた杉浦重剛らが人倫論を訴え抵抗した。当時世間一般には知られなかったものの、薩長閥の対立や反藩閥勢力の動き、さらには皇太子の外遊計画への反対運動も絡んで、宮中から政界、右翼などを巻き込む騒動となった。しかし大正10年2月10日に政府が婚約内定に変更はない旨の発表を行うことで収束し、正式に婚約。内定から5年後の大正13年1月26日にようやく成婚式が行われた。一方、この一件で敗北した山縣は謹慎に追い込まれるなど影響力を著しく喪失し、失意のうちに翌年死去することとなる。
大正9年春頃、学習院生徒の身体検査を行った陸軍軍医・草間要が、久邇宮邦英王の色覚異常を発見する。さらに兄・朝融王と、母方の叔父・島津忠重にも色覚異常があることを知り、島津家と久邇宮家との間に色覚異常遺伝の関係があると考えた。草間は密かに軍医学校長に相談し、そして陸軍から宮内省にも伝えられた。宮内省は今更そんな話が出ても困るので内密に収めるような姿勢を見せたが、山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告した。
明治42年に出された「陸軍士官候補生諸生徒其他陸軍志願者身体検査規則」では色覚異常者を不合格にするとしており、海軍も同様であった。また皇族身位令で、皇太子・皇太孫は満10歳になった後、陸軍および海軍の武官に任ずると定めていた。これらから山縣は、将来天皇に即位し大元帥となるべき者が色覚異常であっては困ると問題視した。
山縣は敗北したものの、2月10日に古希庵を訪れた松本剛吉に対し、「己は勤王に出て勤王で討死した」「己は何処迄も純血論で戦う」と述べ、自説へのこだわりをみせた。そして、2月14日に山縣・西園寺公望・松方正義が集まり、今後の対応を協議した際、責任を取って内大臣を辞任するという松方に対し、山縣は責任を認識するが辞表提出はいかがなものかと述べ、現在の地位に留まることで合意した。しかし、松方は後任の宮内大臣に牧野伸顕を推薦すると、2月18日に山縣に黙って内大臣の辞表を提出してしまう。これで山縣も辞表を出さざるを得なくなり、2月21日に枢密院議長辞任、官職ならびに栄典の拝辞を申し出る書面を提出した。その後、山縣は古希庵で謹慎していたが、原敬が助け舟を出し、5月18日に松方とともに天皇から留任を命じられる形で辞表が却下された。
大正11年5月以降、牧野宮内大臣は皇族の根回しを行い、6月9日に貞明皇后に了解を求める。皇后は、色覚異常という不純分子が皇統に入るのは恐れ多いが、自分も近視を子に遺伝させ申し訳ないと思っており、皆が熟議の末変更なしと決めたのであれば、涙をのんで勅許するしかないとして承認した。そして6月12日に摂政〈皇太子〉の同意を得て、6月20日に勅許の親書が下される。これにより9月28日に納采の儀を行い、翌大正12年秋に成婚式を行うことが内定した。しかしなおも貞明皇后は同年4月に、皇太子が新嘗祭を行ってからでなければダメだと発言する。成婚式は9月1日の関東大震災の発生を受けて摂政の意思で延期となるが、大正13年1月26日にようやく行われた。
