序文・最後の皇帝
堀口尚次
モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーは、パフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝。パフラヴィー2世とも呼ばれる。亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが、イラン革命により失脚した。
改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。地方選挙において選挙権と被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハイ教徒などにも市民権への道を開こうとした時には、異教徒、とりわけシーア派保守派からは「邪教徒」「カーフィル」とされるバハイ教徒がムスリムと対等になることを嫌ったホメイニーらの抵抗にあい、法改正の撤回を余儀なくされた。その後ホメイニーは反体制派に対する影響力を警戒されて国外追放され、イギリスのロンドンへ向かおうとしたがイギリス政府に拒否されたため、最終的にイラン人亡命者コミュニティのあったフランスのパリへ亡命したが、その後もイラン国内の反体制派に影響を与え続けた。
冷戦下において欧米や日本などの先進国との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、破綻をきたし始めた。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、弾圧的な政治への不満も高まりを見せた。皇帝の求心力を保つため、1975年には二大政党制を廃止してラスターヒーズ党〈復活党〉による一党制を行い、バザール商人はそのスケープゴートにされた。
アメリカ合衆国を後ろ盾に独裁を強めるシャーに対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグやイラン共産党などソ連が支援する左翼も参加して激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。モハンマドはテヘラン市内に戒厳令を敷き、夜間外出禁止令を発令するなどしてこれに対応したものの、ホメイニーなどが後からコントロールした事態は収拾がつかず、拡大する一方であった。1979年に休暇のためにイランを一時的に去ると称して皇帝専用機のボーイング797を自ら操縦し、最初の妻の出身地でもあるエジプトに皇后や側近とともに出国した。
