ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1645話 人情将軍今村中将のジャワ軍政

序文・戦陣訓に関わる

                               堀口尚次

 

 今村均〈明治19年 - 昭和43年〉は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。陸軍大学校27期を首席で卒業。恩賜の軍刀を賜った。同期生には東條英機〈11番の成績〉がいた。

 日本軍は蘭印攻略を担当する部隊として第16軍を編成し、軍司令官に今村均中将を任じた。今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。

 政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、昭和17年3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。この時杉山から「バターン攻略に難航した本間雅晴軍司令官を大本営は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。

 陸軍中央の今村の軍政に対する批判は根強く、総理大臣兼陸軍大臣の東條英機が、状況調査のため軍務局長の武藤章少将と人事局長の富永恭次少将をジャワ島に派遣し今村と面談させている。武藤は今村に「シンガポール同様、強圧政策の必要」と説いたが、今村は日本軍の「占領地統治要綱」に定めてある「公正な威徳で民衆を悦服させ、軍需資源施設の破壊復旧する」という規定に則っていると反論し、激しい議論が交わされた。武藤との議論が平行線となった今村は富永に「昨年、大臣の名を以て全陸軍に布告された『戦陣訓』は、ご承知のように私が主宰して起案したものです。それに反するものに屈することは、私の良心の堪えられるところではありません」「ここに同席の富永人事局長は、大臣に上申の上、改正された『占領地統治要綱』を指令される前に、私の免職を計らっていただきます。結論は一つです。新要綱の発令を見るまでは、私のジャワ軍政方針は決して変えません」と富永に自分の更迭を要求した。今村は「戦陣訓」に定められた「服するは撃たず、従うは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言い難し」「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」という条項を絶対に遵守するという強い意志を示したものであった。その後、オランダ領東インド各地を視察した武藤は「今村軍の軍政方針は、中央の意図に反している。もっと強圧主義でやるべきだ」と意見を変えなかったが、富永は今村の強い意志に同意して更迭することはせず、1942年10月に「ジャワ軍政には、改変を加うる要なし。現在の方針にて進むを可とす」と打電して今村の方針を正式に承認している。強圧的な軍政をするように求めていた武藤は、そののち近衛師団長となってスマトラ島に着任したが、そこで今村の寛容な軍政による成果を目の当たりにして、今村の方針の正しさを認識しかつての非礼を詫びている。

 今村によるジャワ軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」とする主張が日本で行われたが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書は、そのような記述は存在しない。蘭印無条件降伏を報じる昭和17年3月10日〈陸軍記念日〉付の『読売新聞』記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。漫画家の水木しげるは、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している。

 戦争犯罪裁判では、不法行為に対する監督責任でBC級戦犯の容疑がかかった。昭和29年1月に刑期満了で出所。出所後は、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版。その印税は全て戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いて、元部下に対して今村は出来る限りの援助を施した。それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動である。