序文・明治天皇の典侍
堀口尚次
柳原愛子(やなぎわらなるこ)〈安政2年 - 昭和18年〉は、明治天皇の側室で、大正天皇の生母。幕末の議奏・柳原光愛の次女で、伯爵柳原前光の妹。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。位階の正二位をもって二位局(にいのつぼね)と呼ばれた。女房名は梅ノ井、早蕨典侍や早蕨局など。
明治3年、皇太后宮小上臈として出仕して英照皇太后に仕えた。同年6月、掌侍〈勾当内侍〉となって従五位に叙された。明治5年に中山慶子の推挙によって明治天皇の御所に出仕し、翌明治6年2月に権典侍となった。同年5月に、正五位。
容貌秀麗かつ賢婦人であり、明治天皇の後宮で寵愛を受け、第二皇女・薫子内親王、第二皇子・敬仁親王、第三皇子・嘉仁(よしひと)親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。
皇太子妃時代の貞明(ていめい)皇后〈大正天皇の皇后〉の教育係を担った際は「かげになり、日向になり、年若い妃をおかばいし」、16歳の少女であった皇后は「そのあたたかい思いやりを、実の母のようにうれしく思った」という。裁縫をよくした皇后は、この「母」の米寿の祝いに88枚の美しい時代裂を集め、布団を縫い上げて贈った。
東京朝日新聞は、大正天皇崩御の際の柳原愛子の様子を「よよとばかり、御枕辺に二位局 老の身痛はしく 張り詰めた気もくじけて」と伝えている。大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、そのためその遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった。だが実のところ大正天皇は慢性的脳膜炎が変調の原因であり、これは明治天皇の夭折した10人の子女の死因でもある。
