ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1088話 徳川四天王の血筋「鬼玄蕃」こと酒井玄蕃

序文・破軍星旗

                               堀口尚次

 

 酒井了恒(のりつね)は、出羽庄内藩家老・酒井了明の長男。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃(げんば)明治維新後、大泉県〈旧庄内藩〉参事。

 徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠次徳川四天王の筆頭家臣であり、庄内藩酒井氏はその血筋を引く。玄蕃は、戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。

 戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、庄内藩会津藩仙台藩米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった〈ただし奥羽列藩同盟は会津藩庄内藩の支援を目的としていたため、会・庄2藩は加盟していない〉。庄内藩勢は当初、白河方面を救援する予定で準備を進めていたが、久保田藩新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなった。この時、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍記を掲げた庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒〈玄蕃〉である。

 数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、数に劣る庄内藩は最新兵器と巧みな戦術で反撃した。新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走したという。新庄攻略後、久保田藩領内に北進し幾多の戦闘を繰り返し、横手城を陥落させ、角間川の戦いで大勝を挙げると、わずか2か月足らずで久保田城の目前にまで進軍した。久保田城攻略の準備を進めている最中、同盟軍の米沢藩仙台藩が降伏し、庄内藩領内にも敵が出没するという情勢を受け、庄内藩の部隊は一斉に撤退を開始した。これを知った新政府軍は秋田方面の兵力を増強し追撃に回ったが、了恒の見事な采配により一進一退の攻防を繰り返しながら退却を進め、庄内藩兵はほとんど犠牲者を出さずに撤退を完了させた。

 鬼玄蕃と恐れられた了恒だが、実際の性格は温和で慈悲深かったといわれる。味方の若い兵を気遣うだけでなく、占領地の孤児や窮民を救済したり、乱暴狼藉や窃盗を厳しく戒め、敵兵の死骸も手厚く埋葬したという。そのため敵方の武士にさえその遺芳が語り継がれ、百姓からは「庄内様庄内様」と慕われたという。

 

第1087話 総会屋

序文・株主総会の舞台裏

                               堀口尚次

 

 総会屋とは、日本において株式会社の株式を若干数保有株主としての権利行使を濫用することで会社等から不当に金品を収受、または要求する者および組織を指す。別名として「特殊株主」「プロ株主」などがある。英語に翻訳する際は「違法行為で金もうけをする人」「ゆすり・たかりを働く人」を意味する "racketeer" を代用するなどの用例がある。

 総会屋は、その名のとおり、株主総会の活性化を阻害する存在であるが、昭和56年、平成9年の2度の商法改正により、その活動が従来より制約された。2006年5月1日に施行された会社法では、株主の権利の行使に関する利益の供与として規制されている。企業の株を保有して株主総会で質問などをし、コンサルタント料や雑誌などの購読料などで企業から金銭を受け取る。大きく分けて2種類存在し、少しの株式を持って会社にとって不利益な発言をするもの、企業が報酬を支払い、ほかの株主を威圧して発言をできなくさせて不当に利益を得ようとするものに分けられる。

 弁護士の花井卓蔵は大正初期、買占め等により会社の支配権を争奪する事例が増えた実務界で攻防両者とも法理論と実務に通じた総会協力者が必要になると考え、久保祐三郎に総会運営を研究するように勧めたと言われる。同時期に洲崎の武部申策は郷誠之助が用心棒を依頼した事を端としてガス、電力会社の総会に自ら足を運び、又は自分の影響下にある田島将光のような人間を出席させている。森川哲郎『総会屋』によると当時の総会屋は業界全体でも150人程度しかおらず会社も儀礼の金銭を渡すだけだったとされる。

 世間の注目を浴びたのは財閥解体後で「白木屋」騒動、「東洋電機カラーテレビ事件」、近江絹糸総会は総会と同様裁判の行方が関心事とされた。御家騒動、乗っ取りなどの事件に介入して知恵を授けたり裏面工作をする黒幕としては戦前からの「大物」として久保、田島の名が高く久保の没後は右翼の児玉誉志夫に師事する一派が台頭したとする説がある。昭和35年代より小川薫や論談同志会など暴力的な広島グループが世間をにぎわせた。

 また総会屋の用心棒として周辺にいた暴力団が次第にノウハウを吸収、構成員や関係者を総会へ進出させた結果昭和45年代の最盛期にはプロ株主の大部分が暴力団関係者とされた。

 

第1086話 未受精卵とニワトリの卵

序文・バタリーゲージ問題

                               堀口尚次

 

 未受精卵とは、産卵されたが受精しなかったのことである。無精卵とも言う。生殖の面では何の意味もないが、いくつかの側面で役に立っている。

 卵は受精して発生が行われることによって新たな個体となるような配偶子の性格の生殖細胞である。受精が行われない場合、発生は行われないから、その卵にはなんら将来はない。これが未受精卵である。普通は一定期間の後に腐敗する。例えば、キンギョの繁殖を行った場合、ホテイアオイの根に多数の小さな透明の卵が着いているのが見えるが、所々に不透明なものがあれば、それが未受精卵である。それらはすぐにミズカビが生える。ただし、単為生殖〈一般には有性生殖=2つの個体間あるいは細胞間で全ゲノムに及ぶDNAの交換を行うことにより両親とは異なる遺伝子型個体を生産するもの する生物で雌が単独で子を作ることを指す〉の場合は全く別で、未受精卵ではあっても発生が行われて子供が生まれる。一般には未受精卵は受精することを前提に作られるから、内容的には受精卵と未受精卵に差はない。

 単為生殖でない動物の場合、一般的には未受精卵は偶然に生じるものであって、役に立たないものである。しかし、それが利用されている例がある。動物では未受精卵が孵化(ふか)した幼生の餌になる例が知られる。これはたまたまそうなるのではなく、習性として親がそのように仕向けるものである。たとえば八重山諸島に分布するアオガエル科のアイフィンガーガエルは樹洞の水たまりに産卵するが、孵化した幼生に対して母親は未受精卵を生産し、これを水中に産んで幼生の餌とする。 

 現在一般的に生産、販売されている食用の鶏卵は、普通は未受精卵である。受精卵が食用に供される例もあるが、現在日本ではそれは付加価値として認められ、より高値で販売される。

 未受精卵はそのまま放置すれば死ぬものである。一般家庭で消費する鶏卵の場合、冷蔵庫なら二週間程度は保管できるし、その時点でも内部の様子には変化が見られない。これは、一つには卵白などの持つ生体防御の仕組みが有効なままであるのもその理由である。なお、有精卵はより高い温度の元で活発に発生が進むべきものであり、冷蔵庫ではそれが不可能になるのでむしろ早くに死んでしまい、保存がよくない。

 採卵用に飼育されている鶏は、1.3日に1個卵を産むように選択的繁殖が行われた種である。採卵用に飼育される鶏種で最も一般的なものは白色レグホンである。卵を産む雌のみが飼育され、雄は処分される。「利用価値がないオスはヒナの段階で処分される。毎年、全国で約1億8千万羽、県内で約1200万羽が廃棄されているという。」雌の雛は75日齢頃まで専用の鶏舎で群飼される。過密な群飼によりひな同士のつつき合いが広がりやすく、傷つくひなが出てくるため、嘴(くちばし)の切断〈デビーク〉が行われる。

 雛は75日齢頃からケージで飼育される。卵を衛生的、かつ集約的に生産できるよう、バタリーゲージで飼育されることが多い。日本の採卵養鶏場では約90%以上がバタリーケージ飼育である。バタリーケージ飼育とは、巣や砂場や止まり木のない、1羽あたりの面積の狭いケージの中で、鶏を飼育する方法である。日本のバタリーケージの平均サイズは1羽あたり470㎠程度。これはB5サイズに満たない大きさである。鶏には隠れて卵を産みたいという強い欲求があり、砂場は掃除行動の一種である砂浴びをするために欠かせないものである。また、狭いケージで鶏を飼育する方法は動物愛護の観点から問題があるとして、アメリカにおける4つの州や欧州連合EU〉では動物福祉の観点から、こういったバタリーケージ飼育は禁止されている

 採卵鶏は150日齢頃から産卵を始める。産卵を開始して約1年が経過すると、卵質や産卵率が低下し、自然に換羽して休産期に入る鶏が出てくる。このため、換羽前に屠殺(とさつ)する場合もあるが、長期にわたって飼養する場合には強制換羽が行われる。強制換羽とは、鶏を絶食させることで給餌を制限し、飢餓の状態におくことで、新しい羽を抜け変わらせることである。強制換羽で生き残った鶏は、また市場に出せる質の良い卵を生むことができる。強制換羽は日本の採卵養鶏では約50 %で実施されている。強制換羽後、約8か月間産卵させ屠殺する。

 日本はバタリーケージの使用に規制がなく、2014年時点で92%がバタリーケージ飼育。国際鶏卵協会データによると94.1%がバタリーケージ飼育となっている。一方で、日本の鶏卵生産者の70%は、日本におけるケージフリーが実現可能であると認識しているという。なお、ケージからケージ飼育移行において必要とする支援について、鶏卵生産者の45%が技術的な助言や研修をあげている。また、小学生の社会科見学で「鶏がかわいそう」という感想にショックを受け、ケージフリーに切り替えたり、平飼い卵の需要に応じたりなどで、ケージフリーの導入に踏み切る農家も一部で見られる。

 

第1085話 更生保護事業の草分け・金原明善

序文・大久保利通に謁見

                               堀口尚次

 

 金原明善(きんぱらめいぜん)天保3年 - 大正12年〉は、明治時代の実業家。静岡県浜名郡和田村村長。天竜治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した

 慶応4年、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。天竜川は嘉永3年から慶応4年にかけて5回の大規模な決壊を記録しており、特に嘉永3年、明善19歳の時に遭遇した洪水は一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。早速、京都に上がり天竜川の治水策を民生局へ建白した。だが明善の必死の訴えも届かなかった。しかし、8月に新政府は急に水害復旧工事に着手した。明治天皇東京行幸の道筋になる東海道の補修が目的であった。当時の明善は、その事を知らずに堤防の復旧工事を行う。明善の優れた運営手腕により、8月下旬に開始した工事は10月上旬に大略が終了。その功績が認められ、明治天皇東幸において浜松行在所の時に名字帯刀を許される名誉を得た。

 明治2年に明善は静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格に申付けられた。そして明治5年に浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。明治7年には天竜川通堤防会社を設立。明治10年、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿・大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の百姓が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水工事事業が始まった。これらは後年の天竜川における治水計画の基礎となった。

 明治13年、当時政治犯として入獄していた自由民権運動家の川村矯一郎から監獄の窮状を聞いたことによって、出所者の保護を目的に勧善会を組織する。明治21年には、静岡監獄の副典獄〈副刑務所長〉となった川村によって勧善会を社団法人としての静岡県出獄人保護会社に改組し、日本で最初に出所者の保護事業に着手した。この会社の設立を契機として、浄土真宗本願寺派真宗大谷派等の宗派や僧侶やキリスト教徒の一部の個人によって各地に釈放者保護団体が設置されるようになり、現在の保護司制度の原点となったとされる。

 

第1084話 土木作業集団・黒鍬

序文・土木作業は鍬が中心

                               堀口尚次

 

 黒鍬(くろくわ)戦国時代や江戸時代に土木作業を行う者達を指す。語源に当たる黒鍬は通常の鍬より刃が厚くて幅が広く、刃と柄の角度が60~80度に開いている。さらに、柄が太く短くできていることで力を加えやすく、打ち下ろした時に深く土に食い込むようにできている鍬の事である。

 もともとは尾張の大野鍛冶が作っていた柄を黒く塗った土木作業用の特殊な鍬だったが、開墾用の打ち鍬として広く普及した。別名「たち鍬」とも呼ばれ、田の土をすくい上げ、畔(あぜ)に塗りつける作業に向くことから畔鍬とも表記する。

 戦国大名に仕えた黒鍬は小荷駄(こにだ)隊に属して、陣地や橋などの築造や戦死者の収容・埋葬などを行った。後世の戦闘工兵の役割を担っていたと考えられている。江戸幕府の組織としての黒鍬〈組〉三河松平氏時代からの譜代の黒鍬から構成されており、若年寄支配で小物・中間(ちゅうげん)として江戸城内の修築作業や幕府から出される諸令伝達や草履取り等の雑務に従事した。食禄は1人当たり12俵1人扶持が原則で役職に付くと、役高が加算された。当初は名字帯刀も許されず、例外的に護身用の脇差だけを持つ事が許されたが、三河譜代の黒鍬については、世襲が許され、後には御家人の最下層格の扱いを受けた。

 黒鍬の長である黒鍬頭(かしら)は、役高100俵の待遇を受けた。定員は天和年間の定制は200名であったが、享保年間には430名となり、幕末には470名にまで増員された。こうした人数の拡大に対応するために、幕末には3組に分割され、黒鍬頭に任命された組頭〈役高30俵1人扶持〉が置かれた。幕末期には新設された役職の補充として見廻組や撒兵へ移動となり、また彰義隊にも多くが参加した。

 諸大名や民間にも黒鍬が存在した。正確には黒鍬黒鍬同心黒鍬者と呼ばれ公儀普請の指揮を取る存在であり、彼等の下に集まる民間の職能集団が日本全国に存在し、これも黒鍬と呼んでいた。彼等は集団内で親方をマゴ、子方を権蔵と呼び、平素は道普請や川普請を生業とし、父祖代々より継承した水盛り、土羽付、玉石積、溜池、堰提、用水路、排水路の技術は卓越していた。また各地の黒鍬は木挽(きびき)と同じく旅に出る際は必ず慣わしとして仕事道具を携帯したが、関東関西の黒鍬には容儀の違いがあったとされる。

 特に民間においては、〈道具の〉黒鍬の産地の1つで近くに木曽川長良川下流の輪中地帯を抱えていた尾張知多郡大野町〈現愛知県常滑市大野町〉の土工集団の「黒鍬組は著名であり、各地に出稼ぎをして土木・治水工事・新田開発のための土地整備に参加した。明治時代に鉄道工事で外国人技士が機械が動かず往生したときは一考に値せずとすぐさま工事を再開させ彼等を驚かせた。近くは東海道新幹線の建設にも参加している。

 越の黒鍬、北陸の土工集団には柳瀬者の名で知られた一団があった。旧幕時代を通し庄川の氾濫に苦しめられた住民が土木技術を磨き、農繁期を除いて各地に出稼ぎに出ていたが、優れたオルガナイザーの佐藤助九郎に集団として組織され佐藤組の中核となった者たちで、明治初期の労務者が乱暴狼藉、酒と喧嘩に騒がしい中で、頭領の佐藤に率いられた柳瀬者は同郷ゆえの強い団結力と高い技術力を誇る異色の集団として注目を集めた。

私見】BS11番組「偉人・敗北からの教訓」の「第47回シリーズ秀吉①高松城上水攻めと毛利輝元」の回で、「備中高松城の水攻めには黒鍬集が活躍した」とのテロップが入ったが、黒鍬衆の間違いではないか?黒鍬集団の略で黒鍬集としたのか?番組当てにメールにて問い合わせをしたが返答はない。(上手く送信出来なかった可能性もあるが…)

 尚、尾張知多郡大野〈現愛知県常滑市大野町〉の「大野鍛冶」が有名であることから、この地域での黒鍬が盛んになったことも考えられる。

 色々調査している内に、以下の気になる新聞記事を見つけた。『半島の出稼ぎ集団「黒鍬」 郷土史家ら供養訴え 工事中事故死、長野で眠る』という見出しで、明治時代に出稼ぎ先の長野県内で土石流で死亡し、同県南木曽町の雑木林に埋葬されている知多半島の土目作業集団「黒鍬」の労働者約二十人を弔う動きが郷土史家らの間で始まっている、というものだ。 長野県南木曽町吾妻の長延寺に供養塔があるとのことなので、一度訪れて供養したいと思う。


 

第1083話 五色の賤

序文・古代日本の身分制度

                               堀口尚次

 

 五色(ごしき)の賤(せん)とは、律令制の元で設置された古代日本の5種の賤民である。

近世の被差別民や近現代日本被差別部落の直接的な起源であるとする説が存在するが、議論がある

 7世紀後半に日本に導入された律令制は、中国のそれに倣って、国民を良民と賤民とに大別する良賤制を採用した〈良賤の法、645年制定〉。 律令における両者の内訳は、以下の通りである。

・良民=官人、公民、品部(しなべ)、雑戸(ざっこ)

・賤民=陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、官奴婢〈公奴婢(くぬひ)〉、私奴婢(しぬひ)

陵戸は、天皇・皇族の陵墓を守る者で、養老律令施行によって賤民となった。官戸は、叛逆など犯罪行為の罰として没官されて賤民に落とされた身分で、口分田等は良民と同等であり、76歳になれば良民に復帰できた。家人は、支族の末裔が隷属化したもので、待遇としては私奴婢と同等であるが、売買は禁止され、仕事に制限があった。官奴婢〈公奴婢〉は朝廷の所有、私奴婢は豪族の所有で、官奴婢には古来からのものと犯罪によって落とされた二種類があり、それぞれ66歳・76歳で官戸・良民に復帰できた。私奴婢は良民の3分の一の口分田が班給され、売買・相続された。公私奴婢には戸の形成は許されなかった。

 朝廷が班田性と戸籍制度を基礎にした人民の人別支配を放棄し、名田経営を請け負う田堵負名(たとふみょう)を通じた間接支配への移行により律令制が解体していく過程で、この身分制も次第に有名無実化した。良賤間の通婚も次第に黙認されるようになり、中には賤民と結婚して租税を免れようとする者も現れた。789年には良賤間の通婚でできた子は良民とされる事になり、907年には奴婢制度が廃止された〈これには、9世紀末の寛平年間に既に廃止されていたとする見解も存在する〉。

 よって、古代の賤民と中世以降の被差別民、さらに近代以降被差別部落と呼ばれるようになった江戸時代の被差別民共同体との歴史的連続性はなく、性質の異なる起源を有したと考えられる。

 

第1082話 日本のテレビの父・高柳健次郎

序文・世界で初めて成功

                               堀口尚次

 

 高柳健次郎明治32年 -平成2年〉は、日本の工学者、日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授。日本のテレビの父と呼ばれる。文化勲章受章。

 静岡県浜名郡和田村〈今の静岡県浜松市中央区安新町〉に生まれた。静岡模範学校を経て大正10年、東京高等工業学校〈現・東京工業大学〉附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校〈現・神奈川県立神奈川工業高等学校〉教諭、大正13年に浜松工業高等学校〈現・静岡大学工学部〉助教授となり「無線遠視法」〈テレビジョン〉の研究を本格的に開始する。

 大正天皇崩御昭和天皇が即位した昭和元年12月25日、高柳ブラウン管による電送・受像に世界で初めて成功した。送像側にニプコー円板を、受像側にブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。 昭和2年、文部省の自然科学研究奨励費の対象となり、研究を進め、同年6月に特許権を取得。同年11月、電気学会主催の発表会が開かれ、無線による映像の送受信を実演した。この時点の解像度は1,600画素。

 昭和12年、浜松工業学校の教授の籍を残したままNHKに出向。出向に当たっては高柳の助手10人も研究員としてNHK入りしたほか、世田谷区喜多見の技術研究所に新たな研究室が建設されるなど高待遇で迎えられた。研究室では東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始したが翌昭和13年日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止。テレビの研究も中断させられレーダーや奮(ふん)龍(りゅう)〈大日本帝国海軍が開発していた地対空ミサイル〉の誘導装置など、軍事関連の研究をすることになる。

 終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するがGHQの指令によりテレビの研究を禁止させられ、公職追放となる。その後、昭和21年に日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となり、NHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。