ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第972話 堀尾金助と母の裁断橋

序文・母の思い

                               堀口尚次

 

 堀尾金助は、安土桃山時代の武士。天正元年出生。堀尾吉晴〈豊臣政権三中老の一人〉の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが続柄には異説がある。天正18年の豊臣秀吉小田原征伐に吉晴と共に参戦したが、6月12日に陣中で死去した。享年18。死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳(みしょう)。弟の忠氏が吉晴の継嗣(けいし)となった。

 金助については、熱田〈現・愛知県名古屋市熱田区裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠(ぎぼし)銘文にその名が見える第二次世界大戦後には、この裁断橋の擬宝珠銘文を基にした物語が多く創作された。擬宝珠とは、伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄〈手すり、欄干〉の柱の上に設けられている飾りである。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。

 裁断橋は、愛知県名古屋市熱田区にあった橋である。日本百名橋の番外に選ばれた。裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進(しょうじん)川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた。なお、永正6年の『熱田講式』には既にその名が見られるという。

 擬宝珠の銘文には、天正18年の小田原征伐で死去した堀尾金助という18歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている

 伝承によっては、母親は橋を2度かけ直しているとするものもある。息子の33回忌の橋の架け替えは2度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門が元和8年に架け替えたとされ、この際に「息子〈金助〉の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる。この銘文は日本女性三名文のひとつにかぞえられている。※現代語訳は以下の通り。

 『天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊〈金助の法名〉と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也』

 しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある。

 明治37年に橋の架け替えが行なわれたが、明治43年に行なわれた川筋の付け替えに伴い、橋があった辺りも大正15年に埋め立てられている。しかし擬宝珠のある4本の橋柱は路傍にそのまま残された。

 大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていた。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂があった。橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。

 昭和20年3月の名古屋大空襲によって周辺の多くが焼失したが擬宝珠は焼失を免れ、昭和28年になって橋のたもとにあって戦災で焼失して建て直された姥(うば)堂境内の池に規模を縮小して再建された。姥堂は平成5年に再度建て直され、裁断橋があった池も埋められたため、往時の様相は既に無い。なお、橋に付いていた擬宝珠は名古屋市文化財に指定されているが、損傷の問題から名古屋市博物館に収蔵されており現地にあるものは複製となっている。

 なお、堀尾氏の城跡でもある愛知県丹羽郡大口町の堀尾跡公園には、五条川を跨ぐ形でかつての裁断橋が焼失する前の姥堂の山門と合わせて再現されている。

 堀尾跡公園の近くには、桂林寺があり「堀尾金助と母の供養塔」がある。またすぐそばの八劔神社に「堀尾屋敷跡」があり、島根県松江市にある松江城を築いた堀尾吉晴〈金助の父〉の生誕地といわれる。別名・御供所城(ごくしょじょう)跡という城址でもある。また隣接する住吉神社には「堀尾金助と母の像」もある。

 

第971話 念仏を唱えて父に斬られた源朝長

序文・親子の無常

                               堀口尚次

 

 源朝長(ともなが)は、平安時代末期の武将。源義朝の次男。母は波多野義通の妹。源頼朝義経の異母兄相模国松田郷を領して松田冠者(まつだのかじゃ)と号した。また、松田殿とも呼ばれた。父や兄弟とともに平治の乱平清盛らと戦うが敗れ、父や兄弟とともに東国へ落ちる途中で僧兵の落人(おちゅうど)狩りで負傷し、傷が悪化して死亡した。

 平治元年12月、父の義朝は反信西派の中心にあった藤原信頼と結んで京でクーデターを起こして三条殿を襲撃、その後同じく信頼と結んだ源光保によって信西は討ち取られた〈平治の乱〉。だが、熊野参詣に出ていた平清盛が政権掌握後信頼と険悪になった二条天皇派と手を結び二条天皇を自陣営に迎え、後白河上皇も内裏を出てしまう。

 12月26日に信頼・義朝討伐の宣旨が下り、平氏の軍勢が内裏に押し寄せた。朝長は兄の義平、弟の頼朝とともに内裏の守りについた。この時、朝長は16歳。やがて戦闘が始まるが『愚管抄』によると信頼方は合戦が始まるとすぐ京の市街地に出て、やがて六波羅へと押し寄せたが、最後は十騎程度の兵力となり敗北。都を脱出する。

 義朝は少人数となった子や一族郎党とともに京を落ち再挙すべく東国を目指すが、大原〈現京都市左京区大原〉の竜下越で落人狩り比叡山の山法師が行く手を遮ったため合戦となり、義朝の大叔父の義隆は首筋に矢を受けて落馬、朝長も左腿に矢を受けてしまい、鐙(あぶみ)を踏みかねた。義朝が「矢を受けたか、常に鐙を踏み、敵に裏に回り込まれるなよ」と励ますと、朝長は「私は大丈夫です。それよりも陸奥六郎〈義隆〉殿が深手を負われています」と気丈に答えた。

 一行はなんとか山法師を蹴散らして先へ進むが、近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬し、その後逃亡を続ける。その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。一行は美濃国青墓宿〈岐阜県大垣市〉に着いた。ここの長者・大(おお)炊(い)は義朝の妾の一人であった。一行はここでもてなされて休息した。ここで義朝は義平と別れ義平は東山道へ向かった。義朝は朝長東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否。父の義朝に頼んで殺害してもらったという

 「金比羅本」『平治物語』によると義朝は甲斐信濃へ赴き兵を募るよう命じ、兄弟は承知し、直ちに宿を出た。朝長は左脚に傷を負っており、心細げに兄に「信濃はどちらの方でしょう」と問うと、義平は雲をにらんで「あっちだ」と言うと、さっさと飛騨の方へ駆け去ってしまった。朝長はひとり信濃へ向かうが、傷が悪化してどうにも進めなくなり、やむなく青墓宿へ引き返した。義朝は「情けない奴だ。頼朝ならば年若くてもこうではあるまい」と怒ったと書かれているが、古態本『平治物語』には朝長信濃へ行こうとして引き返した話は一切出てこない。「金比羅本」『平治物語』ではその続きに義朝が「傷が癒えるまで、ここに留まっていろ」と言うと、朝長は「ここに居ては敵に捕らえられてしまいます。どうか父上の手で私をお討ちになり、後の憂いのないようにしてください」と懇願した。「お前は不覚者だと思っていたが、やはり俺の子だ」と言うと太刀を抜く。驚いた大炊と延寿が慌てて止めに入り、義朝は「こやつの性根を試してやっただけだ」と太刀を納めた。その夜、義朝は「大夫〈朝長〉は如何か」と寝所の朝長に問いかけた。朝長は「お待ちしておりました」と答えて念仏を唱えた。義朝は太刀を抜き我が子の胸を三度刺して首をはね、遺骸に衣をかけた。義朝は悲しみに涙を流した。義朝は大炊に「朝長を見ておいてくれ」と言い残すと出立した。朝長が朝になっても出てこないために、心配になった大炊が様子を見に行き、義朝の言った意味が「供養せよ」ということだと分かった。

 その後、尾張国で義朝は長田忠(ただ)到(むね)の裏切りにあって殺され、首は京へ送られた。大炊は朝長の亡骸を丁重に埋葬したがやがて平氏の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首を取られて、京の六条河原に義朝とともに晒された朝長の首は守役だった大谷忠太が奪い返し、遠江国豊田郡友永村〈現静岡県袋井市友永〉に埋葬した。そのため朝長の胴の墓は岐阜県大垣市に、首の墓は静岡県袋井市に二つある。江戸時代の俳人松尾芭蕉は青墓の朝長墓所を訪れて「苔埋む蔦(つた)のうつつの念仏哉」と詠んでいる。また、修羅能の演目に朝長の死を扱った『朝長』がある。

 円興(えんこう)寺は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院である。山号は篠尾山。本尊は木造聖観音菩薩立像。西美濃三十三霊場第三十二札場。かつては山頂に存在していた。山頂の旧円興寺跡地には礎石が残り、朝長の墓、源義朝〈父〉源義平〈兄〉の供養塔などが残る。現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。

 

第970話 オロナインとオロナミン

序文・オロナイトから

                               堀口尚次

 

 オロナインH軟膏(なんこう)は、大塚製薬工場が製造、大塚製薬が販売する皮膚用抗菌軟膏材薬〈第二種医薬品〉である。

 オロナインの原点となったのはアメリカ合衆国の製薬会社・オロナイトケミカルが製造した殺菌用消毒剤である。オロナイトは、スタンダード・オイル・カリフォルニア社の一部として設立された製薬会社で、現在はシェブロングループのシェブロン・オロナイト・カンパニーとなっている。社名は、スペイン語の「黒い金」から来ており、原油を意味する。

 当時、三井物産から「これを何かに使ってみないか」と持ちかけられ、社長の大塚正士(まさひと)が軟膏〈半固形タイプの外用薬〉として売り出すことを提案した。この背景には当時ペニシリン軟膏やメンソレータムといった大衆薬がヒットしていたことがあり、この分野に参入する事で安定した売れ行きが期待できるとの目論みからであった。早速、当時本社があった徳島県徳島大学の3人の教授に依頼して昭和27年に完成、翌年に販売に漕ぎつけた。

 商品名の「オロナイン」はオロナイトの社名から採用されたもので、昭和40年に発売された炭酸飲料の「オロナミンCドリンク」のブランド名のヒントにもなった。「オロナミンCドリンク」と共に大塚グループを支えている看板商品でもある。オロナイン軟膏」の「オロナ」とビタミンCの「ミンC」を合わせたものである。

 商品名は当初は「オロナイン軟膏」だったが、昭和44年に「オロナインD軟膏」に名称を変更、現在の「オロナインH軟膏」となったのは昭和47年からである。この「H」は軟膏の成分の一つ「ヘキシジン」に由来している。商品のパッケージも基本的には初売された当時のものをベースとしているが、これは「いつも使っている人にとってはマンネリで飽きるかもしれないが、パッケージを変えてしまう事で、安易に商品イメージを変えてしまうとお客様がわからなくなるため」ということで、発売当初からの商品イメージを変えずに売り続けることにこだわる大塚の企業姿勢を表している。

私見】昭和38年生まれの筆者は、軟膏といえば「オロナインH軟膏」しか思いつかない。小さい頃、よくお袋に塗ってもらった記憶がある。オロナミンCドリンクは「元気ハツラツ!」と「読売ジャイアンツ」のイメージが強い。 

 

第969話 笏

序文・元々はカンニングペーパーだった?

                               堀口尚次

 

 笏(しゃく)とは、日本において束帯の着用の際、右手に持つ細長い板である。

  中国では官人が備忘(びぼう)〈忘れたときのためにあらかじめ用意しておくこと〉として書きつけをするための板であったとされている。

 6世紀に中国から伝来し、日本では初めは、朝廷の公事を行うときに、備忘のため式次第を笏紙(しゃくし)というに書いての裏に貼って用いていた。後に、重要な儀式神事に際し、持つ人の威儀を正すために持つようになった

 には、象牙製の牙笏(げしゃく)と木製の木笏(もくしゃく)とがある。大宝律令においては五位以上の者は牙笏、六位以下は木笏と決まっていたが、後に位階に関係なく礼服のときにのみ牙笏を用い、普段は木笏を用いるようになった。

 今日神職が用いているのは木笏である。牙笏は象牙や犀角(さいかく)〈サイの角(つの)〉、木笏はイチイやサクラの木材を用いて製作した。

 なお、使用者や用途によって形が微妙に異なり、天皇は通常は上下とも方形、神事には上円下方を用い、臣下は通常は上下ともに円形、慶事には上方下円の笏を用いることになっていた。

 また、饗宴(きょうえん)の際に音楽に合わせて左に自己の笏、右に他者の笏を持って右の笏で左の笏を打ち付ける笏拍子(しゃくひょうし)という即席の打楽器として使われることがあったが、後世にはより分厚く作られた拍子専用の笏が作られることもあった。

 「」の本来の読みは「コツ」であるが、「骨」に通じて縁起が悪いので、これを忌んで「シャク」と読むようになった。「シャク」と読む理由には諸説ある。元は柞(ははそ)〈ナラ〉の木で作るので、その音の「サク」が転じて「シャク」となった。笏の長さが1勺〈尺〉であることから「シャク」になった。そのため「勺(しゃく)」とも呼ばれることがある。

 今日では笏は神職儀礼用として威儀を正す為に持つものとなっている。

 明治以降の神職服制では正装が衣冠(いかん)〈平安時代以降の貴族や官人の宮中での勤務服〉とされ、同時に採物(とりもの)〈手に取り持つ道具〉として木笏を持つことが規定された。女性神職の場合は、笏の代わりに扇を用いることもある。

 なお、一般の神社や宮中などの「持笏」は右手で笏を握る作法だが、出雲大社は両手で持つ伝統がある。また、出雲大社では、咄嗟(とっさ)の儀式で祓具(はらえぐ)が無い場合に、笏を「左右左」と振り、修祓(しゅばつ)を行う儀法を行う。

 

第968話 源氏塚と源義朝伝説

序文・源義朝の逃避足跡を追う

                               堀口尚次

 

 愛知県海部(あま)郡蟹江町に「源氏塚」なる史跡がある。町のホームページによると『この辺りは平安時代の末期ころ広々とした海でところどころに島が点在していました。平治元年都では平治の乱が起こり平清盛に敗れた源義朝(よしとも)一行が東国に落ちに延びる折、美濃の国・青墓(あおはか)〈現在の大垣市青墓〉から養老、荷の上を通り内海(うつみ)の庄・野間(のま)へ船で落ち延びる途中この小島にしばし船を止め休息し蟹江の漁民のもてなしを受け漁船により内海に送り届けられたと言い伝えられています。人々はいつとはなしにこの地を源氏の大将が休息した島「源氏島」と呼ぶようになりました。なお源義朝は野間にて地元の豪族「長田(おさだ)忠致」に謀(はか)られ、38歳の若さで非業の最期を遂げました。』とあります。

 源氏塚のすぐ近くに「源氏島八幡社」があり、設置説明書きによると『その昔、源氏八幡社東側の50メートルあたりが源氏島史跡の浮島でした。源氏大将・源義朝公は、平安末期の平治元年京の都で平治の乱に敗れた源義朝一行を連れて東国に遁れる途中、家来を近江国で分散させて東国に向かわせ、義朝自身は身内のみ引き連れて、ひとまず美濃国大谷の里の妾の延寿と子の夜叉御前のいる美濃国青墓宿の大炊兼遠の館に辿り着いた。源義朝は休息をとっている間に、嫡男の悪源太義平と家人平賀義信を国に向かわせ、大炊兼遠に二男源朝長の弔いを頼み、源義朝公一行は館を敵に囲まれ、従弟の佐渡式部大夫重成が敵に気づき、館から飛び出して源氏大将・義朝公の身代りになり、敵の平家を子安ノ森に誘い出し見事な最期を遂げ、この間に大炊兼遠の弟・養老鷲巣村の根取り剃髪頭の源光法師に柴船を用意させ、杭瀬川を東国に下るよう命じていた。源光法師は源義朝公、鎌田正家、金王丸を柴船に乗せ、美濃国不破郡青墓を脱出し東国に下る途中、美濃国多芸郡飯ノ木村で休息食事のお礼の印に「伊藤」の姓を与え、田跡川を下り揖斐川美濃国石津郡西小島の百姓には休息食事のお礼に「水谷」の姓を与えた。その後、源光法師は敵の検問を逃れるため、源義朝一行を柴船の船底に潜らせ石津郡折戸関所に向かった。伊勢桑名、美濃大垣間を何度も柴の行商人・源光法師は敵の検問に運良く顔馴染みで通り抜け、石津郡沼村で安堵の休息をした。揖斐川を越え、舳先を東にとって木曽川真中あたりの尾張国海西郡立田村の福原で休息食事、ここでは「小粥」「御粥」「飯谷」の姓を与えて木曽川を離れた〈史跡源氏橋あり尾張国海西郡のあたりまで来れば敵はいまいと安堵して、柴船の柴を荷ノ上げし、柴ガ森となり後の海西郡荷ノ上村〈弥富市荷之上町に「史跡柴ヶ森」あり〉となる。更に柴船は陸地を離れ、舳先を東に向けて葦や川を横切り、先に見える浮島に上陸したのは、源氏大将・源義朝公と鎌田正家、渋谷金王丸、舵取り役の源光法師だった。義朝公が休息した浮島を源氏島と名づけたのは、「尾張国海東郡源氏島村」である。〈※これ以降は省略〉』とある。

私見】過去に私は、養老町の「源氏橋」、弥富市の「柴ヶ森八幡神社〉」を偶然訪れている。そして過日、蟹江町の「源氏塚」「源氏島八幡社」を訪れ、附近の「源氏塚公園・源氏公園」や、交差点の名称が「源氏」「源氏島」となっていることも確認した。住所地名は勿論「蟹江町源氏」だ。

 また、筆者の地元・愛知県東海市知多半島の最北部〉にも源義朝が腰かけて休息した岩が、加家(かけ)村〈現・東海市荒尾町〉海岸近くの海辺にあったという伝説がある。現在の海岸は埋め立てられ工場地帯となってしまったので、史跡としては存在していないのが残念だ。東海市の民話では「高座岩(こうざいわ)」として紹介されており、民話の中の村人の話では「桓武天皇が腰を下ろして宝剣を打ったところだと伝えられており、満潮になると海中に姿をかくしてしまう。」とのこと。後日談としてこの民話では、村人はこの岩を義朝を打った長田の名をとって「おさだ岩」と呼ぶようになったとある。

 ※以下は現地確認に至っておりません。

 更に「尾張名所図会〈江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌〉」には、「加家・観音寺」の絵図に『海に浮かぶ高座岩』が描かれている。

 但し、源義朝は「蟹江の源氏島」や「加家の高座岩」にも立ち寄らず、伊勢の海を渡り、直接内海(うつみ)〈知多半島の南部・野間=長田の屋敷より南部〉の海岸に辿り着いたという説もある。内海海岸には「源義朝公内海上陸の地」があり、内陸部には義朝が腰かけて休息したという「義朝公の大岩」が残る。  

 また、関連史蹟として「姥(うば)はり石」が内海御所奥の姥撻谷(うばはりだに)にある。これは『義朝を討とうとする長田が、義朝の侍童・金王丸に磯釣りへ行かし、義朝を1人湯殿に誘い出した。この変事に気付いて金王丸はそれを確かめるべく帰途の谷で1人の老婆に事実を確かめた。やはりその謀反が現実だとわかり、彼は我を忘れて老婆をなぐり殺してしまった。すると不思議に老婆は固い石となり、その石には金王丸の足跡がはっきりついていた。』という伝説にもとずく。

※源氏橋以外は筆者撮影

 

第967話 木曽義仲と巴御前

序文・最期の奉公

                               堀口尚次

 

 源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義(よし)賢(かた)の次男。源頼朝義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍〈旭将軍とも〉と呼ばれている。

 以仁王(もちひとおう)〈後白河天皇の第三皇子〉の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮(ほくろくのみや)として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる法住寺合戦に及んで法皇後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。

 巴御前(ともえごぜん)は、平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。字は鞆(とも)、鞆絵とも。『平家物語』によれば源義仲に仕える女武者。『源平盛衰記』によればの中原兼遠の娘、樋口兼光今井兼平の姉妹で、源義仲

 軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲平氏討伐に従軍し、源平合戦で戦う大力と強弓の女武者として描かれている宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん〈最後の奉公でございます〉」と言い、大力と評判の敵将・御田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

私見】過日偶然にも、愛知県蟹江町常楽寺龍照院を訪れると、石碑に「重文十一面観音と木曽義仲巴御前ゆかりの寺」とあった。大日如来坐像は、木曽義仲菩提を弔うために巴御前が安置した仏像と言われており、信濃へ落ちる際、蟹江町常楽寺は義仲が建てた寺であることを知った巴は、この寺に大日如来坐像を安置し、髪を下ろして尼となり、名を「東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔ったと伝えられているそうだ。

                 ※常楽寺大日如来 筆者撮影

第966話 因幡の白兎

序文・兎を助けた神様

                               堀口尚次

 

 因幡の白兎とは、日本神話〈古事記〉に出てくるウサギ、または、このウサギの出てくる物語の名。

 この説話は、「大国主(おおくにぬし)の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国をもったかを説明する一連の話の一部である。『先代旧事本紀』にあって『日本書紀』にはない。後者で「大国主の国づくり」の話は、本文でない一書にある「ヤマタノオロチ退治」の直後に続く。また、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。

 『古事記』上巻〈神代〉にある大穴牟遲神〈大国主神(おおくにぬしのかみ)〉の求婚譚の前半に「稻羽之素菟」が登場し、大穴牟遲神に「あなたの求婚は成功するでしょう」と宣託言霊のような予祝を授ける。

 今日では、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神大国主神に助けられる」という部分だけが広く知られている。

私見】過日、岐阜県揖斐郡揖斐川町の「三輪神社〈御祭神・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)〉」を訪れると「なでうさぎ」という石像があり、説明書きに『ダイコク様は、日本神話の中で、過ちを犯し傷を負った因幡の白兎の心と体を癒しました。うさぎの体を撫でて、ダイコク様の癒し、活力を存分にお受けください。』とあった。また過日、名古屋市中区の「三輪神社〈御祭神・大物主大神〉」を訪れると「幸せのなでうさぎ」という石像があり、説明書きに『うさぎは大神様のおつかいです。願いを込めて撫でて下さい。あなたに幸せがいただけます。』とあった。更に過日、静岡県磐田市の「総社淡海國玉(おうみくにたま)神社〈御祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)〉」を訪れると、狛犬ならぬ両対の「うさぎ」の石像があり「大国主命と兎」という説明書きに『数ある神話の中でも有名な「因幡の白兎」。話しの中では兎はサメを騙した悪者ですが、一説には大国主命の奥さんの八上姫(やがみひめ)が兎を使者として結婚相手を探したとも言われています。自分の身体を傷つけて大勢いる兄弟神様の中から清い心の持ち主の大国主命を見つけ出す役目をした訳です。この兎のお陰で大国主命と八上姫はめでたく結婚されたので、縁結びの神様としても慕われています。』とあった。

改めて「大国主命大物主大神=大黒様」と兎の御縁を感じた次第だ。