ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1654話 大本営を代表して署名した梅津美治郎

序文・承詔必謹

                               堀口尚次

 

 梅津美(よし)治郎(じろう)〈明治15年 - 昭和24年〉は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功二級。

 関東局で満洲国駐箚特命全権大使を務め、極東国際軍事裁判〈東京裁判〉で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。昭和53年に靖国神社に合祀される。

 終戦により調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎〈終戦当時の首相で、元海軍大将〉らが適役であるとして一旦は拒否したが、9月2日に東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書調印式が行われ、大本営を代表し署名した。

 関東軍司令官に就任。直前に発生したノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀らの粛正が求められていたが、見事にその任を果たした。

 太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。昭和19年7月、サイパン島失陥の責任を取って辞任した東條英機〈首相・陸軍大臣も兼務していた〉の後任として参謀総長に就任。御前会議では、陸軍大臣の阿南惟幾とともに、陸軍を代表して、ポツダム宣言受諾ではなく継戦による本土決戦を主張した。一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデター計画を阿南から知らされた際は絶対反対を唱え、計画を中止させた。のみならず、陸軍上層部に「承詔必謹〈天皇の詔勅を受けたなら必ず慎んで従うべき〉」を徹底させ、その後のクーデターの動きにも後ろ盾を与えなかった。

 当初は東京裁判の起訴リストに名前はなかったが、ソ連の強硬な主張に押され、昭和21年4月29日に逮捕命令が出される。東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。判決は終身禁固刑が言い渡されたが、のちに首席検察官のキーナンは「梅津と重光は無罪である」、とのちに遺族に語っている。昭和24年1月8日、服役中に直腸癌と急性肺炎を併発し死去。享年68。

 梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。無表情で喜怒哀楽が少ないことから能面と評され、またいかなる派閥にも属さず、自らも子分を作らなかったと言う。

 

第1653話 教育ママ

序文・熱心な強要

                               堀口尚次

 

 教育ママとは自らの子供の教育に〈過剰なまでに〉熱心な母親を指す俗語である。教育ママは現代の日本社会においてステレオタイプの人物であり、子供の社会的、身体的発達、そして感情的な幸福を犠牲にして、子供に勉強することを容赦なく押しつける母親として描かれている。

 教育ママは、現代日本で最もよく見出されるとともに最も嫌悪されるポップカルチャーの人物とされる「子育てママ」で、タイガー・マザーやジューイッシュ・マザーなど各国のステレオタイプに類似している。

 ステレオタイプとしては、子供たちが恐れて学校恐怖症になり、若者の自殺報道によって教育ママが非難される、勉強しても試験があまりうまく行かない子供たちの母親にうらやましいと思わせる、などがある。過剰に熱心な教育は教育虐待と言われる。子供をショービジネスで成功させるため、幼少時からレッスンを受けさせる親はステージママと呼ばれる。

 戦後日本で1950年代は「教育プログラムを加速すること」が国家の使命となっていた。この時代の子供たちは、彼らが一流大学に進学することを望んだ場合、幼稚園の若い段階で同年齢の同僚と区別しなければならなかった。1970年代半ばまでには、子供たちに達成を求める圧力が専門の学校の必要性を生み出していった。7割の生徒が、長期に渡り塾で学習を続けた。1980年代には、学校の圧力に関連した一連の自殺が起こり始めた。小学生と中学生は入学試験に失敗した後に命を落とした。1990年代、失われた10年 〈過去10年間の世界的な経済支配の後〉は、学生のやる気を喪失させ、数学と科学において日本でかつて強く宣伝された学術的評価は、アメリカのレベルのそれらの後塵を拝す。ストレスが教室の混乱を招き始めた。2001年に、全米教育研究所は、教員と校長の33%が「恣意的な活動に従事している」反抗的な子供のために「継続的に」授業の崩壊を目撃したと述べたことを明らかにした 。2002年、日本の文部科学省は  - 改革の必要性に圧力をかけられて  - コアカリキュラムの30%を削除した〈ゆとり教育〉。これにより、生徒が選んだ道筋に従って、生徒がグループで学ぶ時間が広がりだした。「いらいらして面倒」を意味する「ムカつく」という用語は、教師、両親、そして人生にうんざりしているという感情の説明として、生徒の間で広く使われていく。

 

第1652話 FEN 極東放送網

序文・日本のロックシーンに影響を与えた

                               堀口尚次

 

 AFN〈 American Forces Network、アメリカ軍放送網〉は、アメリカ軍が海外に駐留または配属されている人々に提供しているアメリカ合衆国政府〈連邦政府〉のテレビ・ラジオ放送サービスである。メリーランド州フォート・ジョージ・G・ミード基地に本部を置き、ラジオとテレビの衛星放送を含むAFNの放送業務はカリフォルニア州リバーサイドのAFN放送センター〈防衛メディアセンター〉から発信されている。1942年5月26日にロンドンで軍隊ラジオサービスとして設立された。

 日本では、1945年から在日米軍向けに放送されていたFEN〈極東放送網、Far East Network〉が1997年にAFNに統合された。AFNの任務は海外基地在住の軍人軍属とその家族向へテレビとラジオを通した情報やエンターテインメントの提供であり、モットーはWe Bring You Home.

 日本では、AFN Misawa、AFN Tokyo、AFN Iwakuni、AFN Sasebo、AFN Okinawaがある。原則として日本標準時午前0時00分を基点にして毎日24時間英語による放送が行われている。

 AFNを含む在日米軍の無線局は全て日米地位協定に基づき電波法の適用対象外である。AFNの場合はアメリカ国防総省下のDefense Media Activity〈DMA:国防メディア拠点、メリーランド州ジョージ・G・ミード基地〉に管理されているため、日本の総務大臣又は総合通信局長〈沖縄総合通信事務所長を含む。〉からの免許やコールサインを持たない。アメリカにおいても「放送局」ではなく軍用無線局扱いである。

 放送の担当は、Defense Information School〈DINFOS:国防情報学校、メリーランド州ジョージ・G・ミード基地〉の教育課程を修了したBroadcast Journalistと呼ばれる下士官・兵卒の現役軍人が中心で、彼らの兵科はPublic Affairs〈広報科:陸軍、空軍、海兵隊〉、Mass Communications Specialist〈MC:報道員:海軍のみ〉である。

 日本の音楽シーンにおいては、米軍基地で放送されていたラジオ番組「FEN〈Far East Network〉」を通じて、音楽や文化に影響を受けた人々が多い。多くの人々は、FENを通じて洋楽に出会い、特に1960年代から70年代のロック音楽に親しむきっかけを得たとされる。

 

第1651話 足利将軍家の嫡流断絶

序文・足利義昭の嫡子義尋が最後

                               堀口尚次

 

 足利義(ぎ)尋(じん)は、戦国時代末期〈安土桃山時代〉から江戸時代初期にかけての人物。足利義昭の嫡子。元亀3年8月15日、室町幕府の15代将軍・足利義昭の長男として、京都で誕生した。 母は赤松政秀の娘・さこの方。幼名は不詳で、当時の史料には「若君」「大樹〈将軍〉若公」などと記されている。義尋は庶出であったが、父の義昭には正室がいなかったので嫡子とされ、足利将軍家の後嗣として養育された。

 元亀4年4月、義昭は織田信長と対立したことで、居所の二条御所が織田軍の攻撃を受け、勅命講和した〈二条御所の戦い〉。その際、義尋が信長に人質として差し出されたが、ほどなくして義昭のもとに返された。

 天正4年2月、父の義昭が毛利氏の領国である備後の鞆に下向したが、その理由を信長が義尋の擁立を放棄したことを見定めたためとする見方がある。また、5月に安芸の毛利輝元、越後の上杉謙信が反信長として立ち上がったが、彼らもまた同様に、信長が義尋の擁立を放棄したことに反発したためとみられる。

 天正15年8月2日、義尋が興福寺の大乗院門跡となることが決まり、同月28日に奈良に下向して入室し、得度した。これは、豊臣秀吉の九州平定において、父の義昭が島津氏との和睦に尽力したため、秀吉が功賞としてその意向を汲んだからとされる。慶長2年8月28日、父の義昭が死去すると、9月14日夜に義尋は焼香に訪れている。

 義尋の息子らはみな、女人を断ち、子をもうけなかったため、足利将軍家の嫡流は断絶した。義尋の子の系譜をめぐって諸説ある。『足利市史 上巻』所収の「坂本氏系図」では、義尋や永山義在が登場せず、『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集三』の「永山氏系図」では、義尋の子とされる実相院義尊や円満院常尊が一色義喬の弟で、義昭の子と表記されている。義尊や常尊を義昭の子と記述する系図について、奥野高広は『系図纂要』にも見られるとしている。ただし、「永山氏系図」では、義尋は僧でありながら子供をもうけた罪で、寺を追い出されたとされている。それが原因で不埒者の義尋が「坂本氏系図」より削除されているために、同系図で義尊や常尊、義喬が義昭の子のように記述された可能性がある。このため、実は一色義喬が「義昭の孫、義尋の私生児」の可能性も少なからずあるが、客観的な史料はない。

 

第1650話 ベトナムズボン

序文・アメリカ軍が採用

                               堀口尚次

 

 カーゴパンツとは、貨物船〈カーゴ〉で荷役作業などに従事する人たちの間で使われるようになった、作業用のズボンである。生地の厚い丈夫な綿布で作られ、腰をかがめた時にも物の出し入れがしやすい、膝上の左右に大きなポケットが付けられているのが特徴である。コンバットパンツとも呼ばれる。カーゴショートパンツはカーゴショーツ と呼ばれる。

 1942年に、アメリカ陸軍の空挺部隊のM-42パラトルーパーパンツとして採用されたのを皮切りに、各国の軍隊で戦闘服のズボンとして採用されはじめ、1951年のアメリカ陸軍で採用された、M-51戦闘用ズボンでほぼ現在の姿になった。のちに、作業服やカジュアルウェアとして一般にも普及した。6つポケットがあるため6ポケットパンツとも言う。

【私見】アメリカ軍がベトナム戦争時に着用したことから「ベトナムズボン」としての名称が浸透したようだ。筆者がかつてホームセンターに勤務している時はこの「ベトナムズボン」が安価であることもあり飛ぶように売れた。勿論筆者も購入して仕事着としていた懐かしい一着だ。

 

第1649話 勝軍地蔵

序文・愛宕権現の本地仏

                               堀口尚次

 

 勝軍地蔵とは、兜と鎧を身に着けて、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持ち、馬に乗った姿で表される。勝軍地蔵を念ずれば戦に勝利するとされ、武家の信仰を集めた。また過去世に犯した罪の報いをまぬがれたり、飢饉を防ぐともされた。

 愛宕権現の本地仏〈神道の八百万の神々は、実は様々な仏=菩薩や天部なども含む が化身として日本の地に現れた権現である〉とする考えであり、大宝年間、役小角が白山修験の開祖とされる泰(たい)澄(ちょう)と山城国愛宕山に登ったとき、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに地蔵菩薩が現れたという伝承が残る。また、日羅上人を勝軍地蔵と同一視する場合もあり、さらに『元亨釈書』には清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったことが記されている。

 民俗学者・柳田國男は勝軍地蔵の「勝軍」はシャグジ〈石神、塞神=道祖神〉の転訛であり、勝軍地蔵は地蔵菩薩の道祖神的な性格に由来すると唱えた。さらに、歴史学者・黒田智はこれに加えて『源平盛衰記』に地蔵菩薩や陰陽道の大将軍や平安遷都の際に築かれた将軍塚が王城の境界を鎮護する役割を果たしているという内容が書かれていることから、これらの「将軍」の名が「勝軍」と結び付き勝軍地蔵誕生の由来の一つとなったと考察している。

【私見】筆者が知多四国霊場巡礼で南知多町豊岡を訪れた際、29番札所・正法寺近くの長寿寺で珍しい石像に出会ったが、これも「勝軍地蔵」ではなかろうか?確かめるすべもなく未だに疑問が残る。

以前訪れた名古屋市熱田区の雲心寺では、白馬にまたがったまぎれもない勝軍地蔵を見た。

※長寿寺の石像            ※名古屋市熱田区雲心寺の勝軍地蔵

第1648話 ちびくろサンボ

序文・出版社の自主的絶版

                               堀口尚次

 

 『ちびくろサンボ』〈英: The Story of Little Black Sambo〉は、世界的に広く読まれている童話、絵本。もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマンが、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本であった。のちに公刊され、多くの海賊版によって広く流布した。

 日本で広く知られるようになった、岩波書店の日本語版『ちびくろ・さんぼ』〈昭和28年刊、120万部以上が売れたとされる〉も、こうしたアメリカ版の1つであるマクミラン社版に使われていたフランク・ドビアスの絵を用いている。日本でもアメリカ同様にこの絵本には著作権がないとみなされていたため、海賊版が横行し、国内の主要な出版社ほとんどすべてから70種類を越えるいろいろな『ちびくろサンボ』が出版された。日本で出版されたものの多くは、主人公の名前を「サンボ」と片仮名書きし、「ちびくろ」を平仮名で形容詞的に用いていたため、『ちびくろサンボ』という表記が最も一般的なものとなり、これらのいろいろな異本を総称する場合も『ちびくろサンボ』とするのが普通である。このように多くの異本が出回った中で、岩波書店版は最初に広く普及したものであったことから、オリジナルと違う絵が使われていたにもかかわらず、日本ではいわゆる定本と見なされてきた。

 しかしその後、アメリカでの黒人の公民権運動の高まりと連動して黒人差別であるとの批判を受けるようになり、昭和63年には出版社が一斉に絶版させる処置を行った。これにより岩波書店版を含め、事実上すべての出版社のものが自主的に絶版となり、書店から回収されるに至った。

 一斉絶版問題以前には、ヘレン・バンナーマンによる原作そのままを日本語訳したものは出版されないままであった。原作そのものの日本語版が出版されたのは、平成11年の『ちびくろさんぼのおはなし』〈灘本昌久訳・径書房刊〉が初めてである。同じ径書房から英語の完全復刻版も出版されている。

 なお一部では、「発売禁止」措置が取られたかのように誤解されているが、出版社による自主的な市場からの撤退であり、発売禁止になったわけではない。日本では言論出版の自由が日本国憲法に明記されており、地方裁判所の事前抑制として、出版差し止めの仮執行を行うことが理論的には可能なことを除いては、民間や政府が「発売禁止」を行うことはできない。