序文・最高軍事機密
堀口尚次
第二次世界大戦中、日本軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国海軍のF研究〈核分裂を意味するFissionの頭文字より〉と、大日本帝国陸軍の「ニ号研究」〈仁科芳雄の頭文字より〉である。
海軍で一番早く原子爆弾に注目したのは、海軍技術研究所の伊藤庸二技術大佐で、1939年頃であった。また、1940年頃、ドイツの『ニトロチェルローゼ』という火薬の専門誌に火薬の権威アルフレート・シュテットバッハーによる「アメリカの超爆薬」という題の論文が発表されていたところ、海軍火薬廠の村田勉技術少佐がこの論文を翻訳し、海軍艦政本部、海軍火薬廠、各海軍工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。海軍は1941年5月、荒勝に原子核分裂の技術を用いた爆弾の開発を依頼した〈F研究〉。火薬を専門としていた、艦政本部の千藤三千造大佐、磯恵大佐、三井再男大佐もこの論文「アメリカの超爆薬」に着目しており、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた。1941年11月、アメリカの不審な動き〈ウラン鉱石の国外持ち出し禁止など〉を察知して知友である東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉に原子爆弾の開発を相談した。両名ともその調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司・電気研究部長佐々木清恭海軍少将にこの件を諮った。佐々木は日野、嵯峨根の意見を聞き、関係方面と交渉の結果、海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。ただし、この計画書の目的は「原子力機関」となっていて、「原子爆弾」の文字は無い。もちろん、本当の目的は原子爆弾であったが、刺激的な文句は使うまいという心遣いであった。
このことから海軍技術研究所は1942年、原爆研究機関「核物理応用研究委員会」も発足させ、第一回の会合を7月8日、東京・芝の水交社で開催した。メンバーは理研の長岡半太郎、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士、東北大の渡辺寧、仁科存、東京芝浦電気マツダ支社の田中正道らであった。この委員会は1943年3月6日まで十数回開催された。しかし、戦局が進むにつれ「電波兵器〈レーダー〉研究担当の立場にある者が余分なことに力を浪費している」との批判が部内から出たため、この研究は中止されることになった。研究の中止に際して伊藤大佐は「だれかほかに代わってやってくれる人はないものか」と嘆いたという。この委員会で出された結論は「原子爆弾は明らかにできるはずだ。ただ、米国といえども今次の戦争中に実現することは困難であろう」というものであった。その頃、仁科が陸軍航空本部の川嶋虎之輔大佐に「あちこちから原爆、原爆と言われても困るから軍の窓口は航本〈航空本部のこと〉一本にまとめてほしい」旨の要望をしたことから、研究の主体は自然と陸軍に移っていった。
1940年4月、陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将は、部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。鈴木が指名されたのは、当時、原子核物理学を学んだ者が陸軍では鈴木と新妻精一の2名だけだったからである。安田が原子爆弾を着想したのは、ただの思い付きではなかった。安田は当時盛んになってきた原子核物理学に早くから関心を持ち、理化学研究所の仁科芳雄や仁科研究室の若い研究者を航空技術研究所に招き、原子物理学概論の講演をしてもらっていた。これは将来必ず原子爆弾が実現すると考えて、若い軍人たちにも知ってもらうためであった。
そして、1940年5月3日付けの理研の仁科芳雄と東京帝国大学理学部化学科の木村健二郎等の論文には、ウラン238に高速中性子を照射した実験において核兵器の爆発によって生成することが知られているネプツニウム237を生成したことが記され、同年、米国の物理学誌『フィジカル・レビュー』に掲載された。また、同実験では、1回の核分裂で10個以上の中性子が放出され核分裂連鎖反応〈超臨界〉を伴うことが知られている対称核分裂による生成物が生成されたことが、「高速中性子によって生成されたウランの核分裂生成物」と題して、同年7月6日付けの英国の科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。
鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した〈この時点ではまだ軍事機密ではなかった〉。
陸軍航空技術研究所は1941年6月20日、理化学研究所の大河内正敏所長に秘密裏に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究を委託する公式文書を発出。これを受けて仁科研究室を主宰する仁科は原子爆弾の開発に向けた基礎研究に本格的に始動した。 その2年後、仁科は1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。
この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川嶋大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった。
1945年4月13日のアメリカ軍による東京大空襲で熱拡散筒が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった。その後、山形、金沢、大阪での再構築を始めたが、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。結局日本の原爆開発は最も進んだところでも基礎段階を出ていなかった。
日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日にポツダム宣言を受諾した。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾され、当時のアメリカ陸軍長官であるロバート・ポーター・パターソンが破壊を誤りと認めた〈ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている〉。
F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したがGHQの命令として受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた。荒勝は「実験ノートだけは残してほしい」と懇願したが、聞き入れられなかった。サイクロトロン破壊や研究室捜索にGHQ通訳として立ち会ったトーマス・スミスは、基礎研究を妨害してしまったことに責任を感じて退役し、回想記を著した。没収されたノートの一部はアメリカ合衆国議会図書館で保管されていたことが2006年に確認されたほか、2015年にはF研究に参加した清水栄のノート3冊が京都大学で発見された。
その後、1947年1月に極東委員会が原子力研究の禁止を決議し、占領が終了するまで原子核の研究は一切不可能となった。






