序文・承詔必謹
堀口尚次
梅津美治郎〈明治15年 - 昭和24年〉は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功二級。
関東局で満洲国駐箚特命全権大使を務め、極東国際軍事裁判〈東京裁判〉で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。昭和53年に靖国神社に合祀される。
終戦により調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎〈終戦当時の首相で、元海軍大将〉らが適役であるとして一旦は拒否したが、9月2日に東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書調印式が行われ、大本営を代表し署名した。
関東軍司令官に就任。直前に発生したノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀らの粛正が求められていたが、見事にその任を果たした。
太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。昭和19年7月、サイパン島失陥の責任を取って辞任した東條英機〈首相・陸軍大臣も兼務していた〉の後任として参謀総長に就任。御前会議では、陸軍大臣の阿南惟幾とともに、陸軍を代表して、ポツダム宣言受諾ではなく継戦による本土決戦を主張した。一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデター計画を阿南から知らされた際は絶対反対を唱え、計画を中止させた。のみならず、陸軍上層部に「承詔必謹〈天皇の詔勅を受けたなら必ず慎んで従うべき〉」を徹底させ、その後のクーデターの動きにも後ろ盾を与えなかった。
当初は東京裁判の起訴リストに名前はなかったが、ソ連の強硬な主張に押され、昭和21年4月29日に逮捕命令が出される。東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。判決は終身禁固刑が言い渡されたが、のちに首席検察官のキーナンは「梅津と重光は無罪である」、とのちに遺族に語っている。昭和24年1月8日、服役中に直腸癌と急性肺炎を併発し死去。享年68。
梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。無表情で喜怒哀楽が少ないことから能面と評され、またいかなる派閥にも属さず、自らも子分を作らなかったと言う。








