ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1127話 道元を産んだとされる冬姫

序文・木曾義仲正室

                               堀口尚次

 

 藤原伊子(ふじわらのいし)〈仁安2年 - 承元元年〉は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。父は摂関家の関白・松殿〈藤原〉基房(もとふさ)。源〈木曾〉義仲正室で、後に公卿・源通親(みなもとのみちちか)の側室となり道元曹洞宗の開祖〉を生んだとされる。位階は従三位。松殿伊子とも記され、冬姫とも伝わる。

 寿永2年、木曾義仲法住寺合戦で後白河法皇を幽閉した。独裁権力を獲得した義仲は、後白河院政の体制下で干されていた基房と接近する。公卿・近衛基道に関白の座を奪われていた基房は、これを好機と見て義仲に協力した。『平家物語』によると、義仲は基房の娘を正室としこれが伊子とされる。時に伊子17歳という。さらに同日、義仲は後鳥羽天皇を通じて除目(じもく)〈任命〉を行い、基通を解任して伊子の弟・師家(もろいえ)を内大臣・摂政とする。これにより基房は政権の座に返り咲いた。

 こうして一時的に義仲と松殿家に天下が訪れるが、源範頼義経率いる鎌倉軍が京都へ向かって進軍を開始した。『源平盛衰記』には、義経軍に攻められている最中、義仲が五条内裏で基房の娘〈冬姫〉といつまでも別れを惜しんでいたので、越後中太能景と加賀国住人の津波田三郎が切腹してこれを諌めたとする逸話が記されている。出遅れた義仲は粟津の戦いで敗死し、師家は摂政を解任された。

 夫義仲の敗死後、冬姫は父の山荘で暮らしていたが、再び父の権勢復興のための政略結婚に使われ、今度は源通親の側室にされた。この通親は、後白河法皇崩御後に朝廷政治の第一人者となり、「源博陸」と称される程の権勢を誇っていた人物である。正治2年、冬姫宇治木幡山荘において通親との間に男児後の曹洞宗開祖・道元を儲けた。弟の師家はこの男児を養子に迎えて松殿家の再興を図ろうとしたが、実現には至らなかった。2年後に通親とも死別した。 

 冬姫は、道元とともに木幡山荘に移り住んだが、5年後の道元8歳の時に病で死去したという。道元が出家を志したのは幼い日に両親と死別することになったためだという。勿論、道元の両親が誰であるかについては諸説ある。

私見】それにしても木曾義仲の周りには女性が多い。正室は「冬姫こと藤原伊子」だが、有名な女武者「巴御前」を始め、「葵」「山吹」などの女武者を伴っていたようだ。そのことからも「冬姫」の心中は察するに余りあるのだ。

左下・冬姫  左上・巴  中央・木曾義仲  右下・葵  右上・山吹

第1126話 宇都宮城釣天井事件

序文・本多正純の悲劇

                               堀口尚次

 

 宇都宮城釣天井事件は、江戸時代の元和8年、下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄本多正純が、宇都宮城釣天井を仕掛けて第2代将軍徳川秀忠暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、本多家は改易、正純は流罪となった事件である。 

 元和2年、家康と本多正信が相次いで没すると、正純は2万石を加増されて下野小山藩5万3000石となり、秀忠付の年寄〈後の老中〉にまで列せられた。しかし、正純は先代からの宿老であることをたのみに権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。元和5年10月、福島正紀の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、奥平忠昌を下野宇都宮藩10万石から下総古河藩11万石へ移封させ、自身を小山5万3000石から宇都宮15万5000石への加増とした。これにより、正純は加納御前〈家康の長女〉ら奥平家や大久保家と縁の深い人物からも反感を買うことになる。加納御前は正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総古河への転封を命じられた忠昌の祖母であり、しかも加納御前の娘は、改易させられた大久保忠隣の嫡子大久保忠常の正室であった。

 元和8年、秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後に宇都宮城に1泊する予定であったため、正純は城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。4月16日に秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があった。内容の真偽を確かめるのは後日とし、4月19日、秀忠は「御(み)台所(だいどころ)が病気である」との知らせが来たと称し、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、21日に江戸城へ帰還した。

8月、出羽山形藩最上義俊の改易に際して、正純は上使として山県城受取りのため同所に赴いた。その最中に秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけた。伊丹康勝と高木正次が使いとして正純の下に赴き、その11か条について問うと、正純は一つ一つ明快に回答した。しかし、康勝が追加で行なった3か条については回答することができなかったため、所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利郡に5万5000石を与えると命じた。謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪とされた

 

第1125話 修験道の総本山・金峯山寺と役行者

序文・桜の名所吉野山

                               堀口尚次

 

 金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山修験本宗修験道総本山の寺院。山号は国軸山。開基〈創立者〉は役小角(えんのおづの)〈役行者(えんのぎょうじゃ)〉と伝える。かつては「山下(さんげ)の蔵王堂」と呼ばれていた。本尊は蔵王堂に安置される蔵王権現立像3躯。本尊は巨像として著名で中尊は約7mもあり、普段は非公開〈秘仏〉であることから「日本最大の秘仏」とも称される。現存の蔵王堂は、天正18年に豊臣秀吉の寄進によって再建されたもので、蔵王権現立像3躯の造仏は、秀吉の発願した方広寺大仏〈京の大仏〉の造仏にも携わった、南都仏師の宗貞・宗印兄弟が手掛けたことが、胎内の銘から知られる。

 金峯山寺の所在する吉野山は、古来より桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは単独の峰の呼称ではなく、吉野山奈良県吉野郡吉野町〉と、その南方二十数キロメートルの大峯山系に位置する山上ヶ岳奈良県吉野郡天川村〉を含む山岳霊場を包括した名称である。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。

 国土の7割を山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていた。なかでも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験道などと呼ばれる山林修行者が活動していた。こうした日本古来の山岳信仰神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角である。

 役行者(えんのぎょうじゃ)の呼び名で広く知られる役小角は、7世紀前半に今の奈良県御所市に生まれ、大和国河内国の境にある葛城山で修行し、様々な験力〈超人的能力〉を持っていたとされる伝説的人物である。奈良県西部から大阪府にかけての地域には金峯山寺以外にも役行者開創を伝える寺院が数多く存在する。『続日本紀』の文武天皇3年の条には、役小角伊豆国流罪になったという記述がある。このことから役小角が実在の人物であったことは分かるが、正史に残る役小角の事績としては『続日本紀』のこの記事が唯一のものであり、彼の超人的イメージは修験道山岳信仰の発達と共に後世の人々によって形成されていったものである。


 

第1124話 天下御免の傾奇者・前田慶次郎利益

序文・大ふへん者

                               堀口尚次

 

 前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。

滝川一族の出身だが、尾張荒子城主・前田利久の養子となった。加賀百万石の祖・前田利家は叔父。利益以外にも利貞、利太など、さまざまな名前が伝えられているものの、現在では小説や漫画の影響で前田慶次/慶次郎の通称で知られる。また穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとこさい)、穀蔵院忽之斎(ひょっとさい)、龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)という人を食った道号も伝えられている。さらに『鷹筑波』『源氏竟宴之記』によると、連歌会では「似生」という雅号を用いていた。虚実入り混じった多くの逸話により「天下御免の傾奇者(かぶきもの)」と囃される一方、高い文化的素養を備えた文人武将でもあった。

 『大日本野史』前田利太伝では、上杉家に仕えた時に「大ふへん者」の旗指し物を指しており、他の武士と口論になったとしている。武士たちは「わが武功赫々たる上杉家に仕えて日の浅い貴殿が、何故、大ぶへん者〈大武辺者〉などというふざけた旗を指しているのか」となじったが、慶次郎は「ご貴殿は田舎の方ですな、かなの清・濁を知らないのですかな?拙者は浪人して貧乏ですから大ふべん者〈大不便者〉と書いた旗を指しているのですよ」と苦笑して言ったとしている。

 大日本史の続編大日本野史でも「任侠伝・前田利太伝」として第275巻に伝記が書かれており、浮世絵にも描かれるなど江戸時代にはそれなりに知名度があったと考えられる。『大日本野史』では既に前田利家を水風呂に入れて駿馬松風に乗って出奔する話、上杉家に仕えてから「大ふへん者」の旗指し物を指して諸将と喧嘩になる話など、現在知られているエピソードがかなり載っている。

 一方、その人気に反して歴史上の人物である前田利益の事跡を裏付ける一次史料は少ない。特に前田家を出奔するまでの具体的な動向や逸話は前田家関連の史料にはほとんど確認されない。

 江戸時代からさまざまな武辺咄で盛んに取り上げられ、今日でも小説・マンガ・ゲームなどで広く知られる結果となっている。 



 

 

第1123話 渋沢栄一を見い出した平岡円四郎

序文・徳川慶喜の小姓

                               堀口尚次

 

 平岡円四郎〈文政5年- 元治元年〉は、幕末期日本の武士〈一橋家家臣・家老並〉。徳川慶喜小姓を務めた攘夷派に暗殺された

 旗本・岡本忠次郎の四男として生まれ、16歳の時に旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所にて学問所寄宿中頭取〈学生寮の寮長〉に就任するなど若い頃から聡明だった。だが、人づきあいが苦手な性格が災いしてか「武術鍛錬のため」と2年ほどで学問所を辞めてしまう。その後10年近くは定職につかずにいたが、一時的に町方与力の助手をしたりすることはあったという。

 徳川慶喜〈一橋家相続および改名前は松平昭致〉が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭慶喜に諍臣(そうしん)〈主君の非行を諫める臣下〉が必要と考え、藤田東湖にその人選を依頼した。平岡の才能を認めていた川路聖謨(としあきら)や藤田から同家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることとなった。

 安政5年に徳川家定の将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎〈一橋家家老〉は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福(よしとみ)〈紀州藩主〉が擁立され、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された安政6年、甲府勝手小普請にされる。

 文久2年、慶喜将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。慶喜からの信任は厚く、元治元年2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月14日、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、京都西町奉行所付近にて在京水戸藩士らに襲撃され暗殺された。享年43。

 平岡の推薦で一橋家の家臣に取り立てられた経験を持つ渋沢栄一は後年、以下のように述べている。『この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。』

 

第1122話 光源氏の再来・平維盛

序文・平家の貴公子

                               堀口尚次

 

 平維盛(これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡子・平重盛の嫡男。美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、「富士川の戦い」で敗北し、「俱利伽羅峠の戦い」では壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水したとされている。

 寿永3年2月、維盛は「一之谷の戦い」前後、密かに陣中から逃亡する。これ以降は文献により諸説があり、正式な死亡日とその死因は不明である。『玉葉』の2月19日条によると、「伝聞、平氏帰住讃岐八島〈中略〉又維盛卿三十艘許相卒指南海去了云々」とあり30艘ばかりを率いて南海に向かったという。この時異母弟の忠房も同行していたという説もある。のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(ふだらくとかい)〈元は仏教の宗教行為=入水自殺〉したとされる。

 熊野の伝承では「一ノ谷の戦い」後に戦線を離脱し、小森谷渓谷〈龍神村〉に隠れ住んでいたという。そこで地元に住むお万という娘と恋仲になったが、「壇ノ浦の戦い」で平家が敗れたことを知り、護摩壇山で平家の行く末を占ったところ凶が出たため、維盛は小森谷を出て那智の海に入水したとされている。それを知ったお万は滝に身を投げたといわれており、小森谷渓谷には維盛の屋敷跡と伝わる場所があるほか、お万が白粉を流した「白壺の滝」、紅を溶かした「赤壺の滝」、身を投げたとされる「お万が淵」がある。

 その一方、『源平盛衰記』に記された藤原長方の日記『禅中記』の異説によれば、維盛は入水ではなく熊野に参詣したのち都に上って後白河法皇に助命を乞い、法皇が頼朝と交渉し頼朝が維盛の関東下向を望んだため鎌倉へ下向する途中の相模国の湯下宿で病没したという。ただし『禅中記』のこの部分は現存していない。『吉紀』の寿永3年4月の条に、維盛の弟忠房が密かに関東へ下向し、許されて帰洛するという風聞が記されているが忠房は同記に翌年の12月に鎌倉に呼ばれた後に斬首されたと書かれており、矛盾するので前者の忠房は維盛の誤りとみることができる。

 

第1121話 信州の野尻湖にいたナウマンゾウ

序文・ナウマンが発見

                               堀口尚次

 

 ナウマンゾウは、約1万5000年前までの日本列島に生息していたゾウである。後期更新世の日本列島に棲息した長鼻目(ちょうびもく)は本種とケナガマンモスのみであり、ヤベオオツノジカやハナイズミモリウシと共に後期更新世の日本列島に分布した大型陸棲哺乳類でもとくに有名な種である。

 肩高2.5m〜3mで、現生のアジアゾウよりもやや小型である。一方で、氷河の寒冷な気候に適応するために皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたと考えられている。

 牙〈門歯=いわゆる前歯〉が発達しており、雄では長さ約240cm、直径15cmほどに達した。この牙は小さいながらも雌にも存在し、長さ約60cm、直径は6cmほどであった。また、〈牙の〉外側から内側へのねじれの様な湾曲も特徴的である。最大の特徴として頭蓋骨上の頭頂部の隆起があり、頭部のシルエットがベレー帽を思わせるほどに突き出ていたとされている。

 最初の標本は明治初期に横須賀で発見され、東京帝国大学〈現・東京大学〉地質学教室の初代教授だったドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究、報告された。その後大正10年には浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯(きゅうし)・下顎骨(かがくこつ)〈いわゆる下あご〉の化石が発見された。

 京都帝国大学理学部助教授の槇山次郎は、大正13年にそれがナルバダゾウの新亜種であるとしてこれを模試票本とし、日本の化石長鼻類研究の草分けであるナウマンに因んでElephas namadicus naumannniと命名した。これにより和名は「ナウマンゾウ」に決定した。

 昭和37年から昭和40年まで長野県野尻湖に位置する立(たて)鼻(はな)遺跡野尻湖遺跡群で実施された4次にわたる発掘調査では、大量のナウマンゾウ化石が見つかった。それまでは本種は熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖での発掘により、やや寒冷な気候下でも生息していたことが判明した。

 本種が出現したのは約34万年前とされており、寒冷期で陸橋が形成された約43 - 30万年前に日本列島への渡来があったと考えられている。ユーラシア大陸からもナウマンゾウとされる化石の発掘例があるが、日本のナウマンゾウと同種であるかどうかは今のところ不明である。