堀口尚次
藤原伊子(ふじわらのいし)〈仁安2年 - 承元元年〉は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。父は摂関家の関白・松殿〈藤原〉基房(もとふさ)。源〈木曾〉義仲の正室で、後に公卿・源通親(みなもとのみちちか)の側室となり道元〈曹洞宗の開祖〉を生んだとされる。位階は従三位。松殿伊子とも記され、冬姫とも伝わる。
寿永2年、木曾義仲は法住寺合戦で後白河法皇を幽閉した。独裁権力を獲得した義仲は、後白河院政の体制下で干されていた基房と接近する。公卿・近衛基道に関白の座を奪われていた基房は、これを好機と見て義仲に協力した。『平家物語』によると、義仲は基房の娘を正室とし、これが伊子とされる。時に伊子17歳という。さらに同日、義仲は後鳥羽天皇を通じて除目(じもく)〈任命〉を行い、基通を解任して伊子の弟・師家(もろいえ)を内大臣・摂政とする。これにより基房は政権の座に返り咲いた。
こうして一時的に義仲と松殿家に天下が訪れるが、源範頼と義経率いる鎌倉軍が京都へ向かって進軍を開始した。『源平盛衰記』には、義経軍に攻められている最中、義仲が五条内裏で基房の娘〈冬姫〉といつまでも別れを惜しんでいたので、越後中太能景と加賀国住人の津波田三郎が切腹してこれを諌めたとする逸話が記されている。出遅れた義仲は粟津の戦いで敗死し、師家は摂政を解任された。
夫義仲の敗死後、冬姫は父の山荘で暮らしていたが、再び父の権勢復興のための政略結婚に使われ、今度は源通親の側室にされた。この通親は、後白河法皇崩御後に朝廷政治の第一人者となり、「源博陸」と称される程の権勢を誇っていた人物である。正治2年、冬姫は宇治木幡山荘において通親との間に男児〈後の曹洞宗開祖・道元〉を儲けた。弟の師家はこの男児を養子に迎えて松殿家の再興を図ろうとしたが、実現には至らなかった。2年後に通親とも死別した。
冬姫は、道元とともに木幡山荘に移り住んだが、5年後の道元8歳の時に病で死去したという。道元が出家を志したのは幼い日に両親と死別することになったためだという。勿論、道元の両親が誰であるかについては諸説ある。
【私見】それにしても木曾義仲の周りには女性が多い。正室は「冬姫こと藤原伊子」だが、有名な女武者「巴御前」を始め、「葵」「山吹」などの女武者を伴っていたようだ。そのことからも「冬姫」の心中は察するに余りあるのだ。
左下・冬姫 左上・巴 中央・木曾義仲 右下・葵 右上・山吹