ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第641話 地元〈東海市〉に残る今川落武者伝説

序文・桶狭間に近い東海市

                               堀口尚次

 

今川塚

愛知県東海市高横須賀長に、桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元のお墓と伝えられる供養塔があ。横須賀小学校の東方に「今川さん」と呼ばれる供養塔と、「今川義基墳」と刻まれた碑が建ってる。桶狭間の合戦に敗れた今川義元の家来がここまで逃げてきて、殿の遺体を永昌院〈塚の南方にあったお寺〉へ葬ったといわれている。この塚は江戸時代の絵地図にも書き残されている。碑の文字が「義元」ではなくて、「義基」となっているのは、敵に見つかるのを防ぐためであったと伝えられている。

 

如意来さん】※如意来大士御詠歌より〈東海市大田町常連寺境内の石碑より〉

千百余年のそのむかし、大里七塚の一つにて過ぐる永禄寅の夏、今川氏の落武者が土着となりて、古郷に残せし妻子恋しさに五輪の塚に願をかけ、心願成就のあかつきは一切経を供養して、後の衆生を救はんと報恩報謝の菩提石、心をこめて詣りなば声に應ずる山彦のたちまち霊験あらはれて現世利益をなし給ふ、幾千万の菩提石、有るぞや今も其のままに功徳の程も有難や、願ふ事心のままに叶ふ也、如意来大士のお徳なりせば、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

十二塚

東海市の民話「姫島十二塚」によると、桶狭間の戦い織田信長から攻撃を受け、大将の今川義元は討ち死。残兵も故郷の駿河遠江に向かって敗走したが、織田軍の追撃も激しかったので、追撃を振り切るあまり、知多半島側に逃げ込んだ十二人の兵士がいた。兵士達は皆負傷しており、動けないところを村人達が発見した。村人たちは庄屋に相談したが、今川軍だと分かると助ける事を戸惑った。それは、桶狭間合戦で織田軍が勝利したことは風の速さで広まり、もし負けた側の残兵を助けたと知られれば、織田家からどんな仕打ちがあるかわからない。村人達はただ見守るだけだった。その後、兵たちはひとり、またひとりと息を引き取り、十二人全員が亡くなってしまった。亡くなれば皆、仏。村人たちは十二人の亡骸を手厚く埋葬し、十二基の墓ができた。その場所が現在の東海市富木島町十二塚ということだ。このあたりは姫島地区とよばれているが、十二基の墓は現存せず、地名だけが現在まで残っている。

 

第640話 ちはやぶる神代も聞かず竜田川

序文・からくれなゐに水くゝるとは

                               堀口尚次

 

 在原業平(ありわらのなりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人平城天皇の孫。官位は従四位上蔵人頭・右近衛権中将。『日本三大実録』の卒伝に「体貌閑麗(たいぼうかんれい)、放縦不拘(ほうしゅうふかかわ)」と記され、昔から美男の代名詞とされる。

 筆者の地元・愛知県東海市富木島町には「五輪塔業平塚」なるものがある。市の文化財のHPの説明によると『鎌倉時代の特徴をもった古い五輪塔が7基あり、いちだんと形の良い塔を業平塚と呼んでいます。これらの五輪塔は、この地を治め、良忍上人を生んだ藤原氏の一族が、業平と都から業平をしたってこの地に来て、悲恋の死をとげた女官あやめの菩提塔として建てたものといわれており宝珠寺移転前の寺院墓地でした。今も業平信仰は、知恵と長寿の利益があり、歌詠みは良き歌が詠め、寿命が延び、頭が良くなり、美人になるとされています。』とある。

 また、近くの宝珠寺には「在原業平位牌」もあり、こちからも市のHPによると『制作は室町時代の天文初期と思われます。位牌に刻まれた文字には、在原業平の名前が読み取れます。歴史上では、在原業平は元慶4年に病気のため56歳でなくなったとされていますが、この地には、信仰厚き観音菩薩貴船大明神の加護により助かり、以後、都との連絡を絶ち、隠とん生活をして、10年の長生きで、寛平元年ころに富田の屋敷で亡くなったという伝説があります。』とある。

 更に、この業平塚の近くに「貴船神社〈社殿はなく祠のみ〉」があるが、石碑の御由来によると『在原中将業平親王東下りの途中当地に滞在の折り、山城國貴布称大明神を勧進して祀られたもので時代は清和天皇貞観年中である』とある。因みに現在の住所は「東海市富木島町貴船」である。

 業平がモデルと言われる人物はさまざまな物語や文献に登場している。業平に関連した伝説は各地に伝わっている。

 尚、有名で代表的な歌として『ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 』「古今和歌集」「小倉百人一首」撰歌がある。

 

 

第639話 舞い鶴にぶどうの家紋

序文・尾張藩主と平島村の繋がり

                               堀口尚次

 

 尾張国知多郡平島村〈愛知県東海市荒尾町〉の庄屋・久米右衛門宅に、尾張の殿様〈徳川御三家筆頭の尾張藩藩主〉が立ち寄ることになった。尾張の殿様の狩猟好きは天下に知られており、隣村の加木屋村の狩場はその御縁から「御雉子山(おきじやま)〈鷹で雉を仕留める〉」と名づけられている。

 殿様は、久米右衛門の鷹狩好きを聞きつけて、立ち寄ったのだ。こうして殿様と久米右衛門がそろって狩場に出かけ、二人の自慢の鷹は、鶴の鳴き声の方角へ天高く舞い上がると、久米右衛門の鷹が一足先に鶴をつかんで帰ってきた。殿様は、敗れた悔しさを忘れて、久米右衛門の鷹を手を打って誉め称(そや)した。そして殿様は「よくぞここまで仕込んだものだ。今日は、予の負けじゃ。褒美はなんなりととらせるぞ。遠慮なく申してみよ。」と言った。久米右衛門は「ありがたき幸せに存じます。特に欲しい物とてございませんが、私めに名字と家紋が頂きとう存じます。」と答えた。そこで、早速殿様は、久米右衛門に深谷(ふかや)」の姓と、舞い鶴にぶどうの家紋を与えたといわれている。

 平島村出身の儒学者・細井平洲先生〈米沢藩主・上杉鷹山公の師匠〉が、遠く長崎まで勉強に行った時、旅費や学費の援助をしてくれたのも、この久米右衛門だということだ。

 ※この話しは、東海市教育委員会出版の「東海市の民話」から一部抜粋させて頂いた。因みに、現在の荒尾町平島地区には「深谷」姓が多く、筆者の同級生にも何人かいるので一応確認してみたが、この紋章の家はいなかった。また御雉子山は、愛知県東海市加木屋町にある山で、標高59.2mで東海市最高峰とされる。この地には昔キジなどの野鳥が多く、尾張藩の第2代藩主・徳川光友が鷹狩を行ったことから、この名前が付いたとされる。

 

第638話 知多半島に残る日本武尊の伝説

序文・ヤマトタケル伝説

                               堀口尚次

 

【寝覚の里】

名古屋市緑区大高に「寝覚の里」という史跡があり、立札には以下の様にある。『ここは、日本武尊(やまとたけるのみこと)と宮簀媛命(みやずひめのみこと)が、新婚のひと時を過ごした館があったと伝えられる所です。当時海辺であったこの地は、毎朝寄せくる潮騒に寝覚めを得ていました。そのことから里人はここを「寝覚の里」と呼んでいました。初めはここよりやや東の田の中に塚が設けられていましたが伊勢湾台風で散逸してしまいました。今の碑は昭和五十五年この場所に再建されたものです。碑文は次の通りです。大高里なるこの寝覚の地名はしも千八百年の昔倭武天皇の火上の行在所に坐し時期な~~に海潮の波音に寝覚し給ひし方なる故にかくは伝い効ハセるものならは故この地名を万代に傳へまくを予に其事この石面に書付てよと里人の請はるゝまゝにかくなむ 明治四十三年十月 熱田神宮宮司 正五位勲六等 角田忠行 大高学区 大高歴史の会』

尚、隣接する東海市名和町の住所は「寝覚」であり、「寝覚公園」もある。

【船津神社】

 愛知県東海市名和町船津にある神社。主祭神日本武尊

この地は、第12代景行天皇の御子日本武尊ご東征の時、伊勢より海を渡られて、ここに御船をおつけになり、なわで船を松の木につながれたことによって、名和船津の地名が出来たとされる

 伝説として、当社の御前を航海する船はご神威を恐れて常に敬意を表し、白帆を下げて過ぎ、陸では必ず馬を下りて一拝しない者はなし。又甕の宝物があって、氏子一同かめを不浄物に用いない風習がある。これを犯す時は、その家必ず栄えないという言い伝えが今なお残るという。

【生路井(いくじい)】

知多郡東浦町生路の史跡。日本武尊尾張氏の兵と共に東征軍の兵力を整えていた時、この地で兵を引き連れて狩りに出掛け、生路(いくじ)の里を通りかかった。熱い夏だったため、喉が渇き、水飲み場を探すが無く、山にある崖の下の大きな岩が湿っていたので、日本武尊が弓のはずで突き立てると清水が湧き出し泉となり、それが村人から生路井と呼ばれる水飲みや、酒造りの水となったと伝わる。

 

第637話 書道の神・小野道風

序文・花札の一枚

                               堀口尚次

 

 小野道風(おののとうふう)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。参議・小野篁(たかむら)の孫で、大宰大弐・小野葛絃(かずらお)の三男。官位は小四位下・内蔵(くらの)頭(かみ)。それまでの中国的な書風から脱皮して和洋書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。

 小野葛紘が尾張国春日井郡上条現在の愛知県春日井市松河戸に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。史実としては確認できない、あくまで伝承の類であるが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていた。

 能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王 羲之(ぎし)〈中国の書家〉の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

 空海筆の額字について「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したという。これは、空海が筆力・筆勢を重んじたのに対して、道風は字形の整斉・調和を重要視したという書に対する姿勢の違いや、道風の書が天皇や貴族に愛好され、尊重していた自負によるものと想定される。

 道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃小野道風青柳硯』からと見られる。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった。この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としている

 

第636話 十五の森伝説

序文・人身御供

                               堀口尚次

 

 十五の森は、洪水を鎮めるために少女を人柱にした、愛知県春日井市に伝わる民話。

 昔、現在の愛知県春日井市松河戸町にあたる地域では、毎年のように庄内川が氾濫していた。明応3年、村人がそのことで氏神の境内で話していると、陰陽師(おんみょうじ)が通りかかったので相談した。陰陽師は「水神様に15歳の娘を捧げれば、水神様の怒りはおさまる」と告げ、15歳の娘をもつ親たちがくじ引きを行った。その結果、庄屋矢野家の娘が人柱に決定し、親子は泣く泣く受け入れる。6月29日、悲嘆のうちに白木の箱に入れられた娘は、頻繁に堤防が決壊する場所に埋められた。娘はそれから1週間棺の中で生き、一緒に入れた鐘を叩く音が地中から聞こえたという。それから水害がなくなり、村は平和となった。当時、埋められた場所に雑木林があったため、そこが「十五の森」と呼ばれるようになった。

 村人は娘を弔うため、小祠を建て、薬師如来を安置した。薬師如来は江戸時代の中頃に観音寺に移され、毎年命日の6月29日には供養が行われていたが、現在は、11月8日に供養が行われている。

 市の史跡となっている「十五の森」は、中央線勝川駅から南へ1キロメートルほどの愛知電機工作所南側駐車場の中にある。昔、この辺りは一面水田だった。通称で六升池、堤越、十五、砂入などといった庄内川氾濫の跡を示す地名が現在も残ってる。
 松河戸の観音寺には、この童女の位牌と共に、童女の霊を鎮めるために造った薬師如来の像が祀られている。江戸時代の中頃この薬師如来の由来について書かれた「十五薬師記」もある。また、観音寺の門前には、童女童女の母の霊を慰めるために昭和44年5月、石の親子地蔵尊が地元の有志によって建立された。
 因みに人柱とは、人身御供(ひとみごくう)の一種。大規模建造物〈橋、堤防、城、港湾施設、など〉が災害〈自然災害や人災〉や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言う。

 

第635話 活火山の山号「恐山」

序文・日本三大霊場

                               堀口尚次

 

 恐山は、下北半島青森県〉の中央部に位置する活火山である。カルデラ湖であるの宇曽利山湖(うそりさんこ)の湖畔には、日本三大霊場の一つである恐山菩提寺が存在する。霊場内に温泉が湧き、共同浴場としても利用されている。恐山を中心にした地域は下北半島国定公園に指定されている。

 恐山は、カルデラ湖である宇曽利山湖を囲む外輪山と、円錐形の火山との総称である。最高峰は標高878mの釜臥山。外輪山は釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山剣の山、地蔵山、鶏頭山の八峰。「恐山」という名称の単独峰はない

 古くは宇曽利山と呼ばれたが、転化して恐山「おそれやま/おそれざん」と呼ばれるようになった。「うそり」とはアイヌ語の「ウショロ〈くぼみ〉」に由来する。

 宇曽利山湖の湖畔にある恐山菩提寺は日本三大霊場の一つであり、9世紀頃に天台宗の慈覚大師円仁が開祖した。本尊は延命地蔵尊。同寺は現在は曹洞宗の寺院であり、本坊はむつ市田名部にある円通寺である。恐山は死者の集まる山とされ、7月の恐山大祭では、恐山菩提寺の境内でイタコの口寄せも行われる

 恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、古くから崇敬を集めてきた。下北地方では「人は死ねば〈魂は〉お山〈恐山〉さ行ぐ」と言い伝えられている。山中の奇観を仏僧が死後の世界に擬したことにより参拝者が多くなり信仰の場として知られるようになった。明治・大正期には「恐山に行けば死者に会える」「河原に石を積み上げ供物をし声を上げて泣くと先祖の声を聞くことができる」「恐山の三大不思議〈夕刻に河原に小石を積み上げても翌朝には必ず崩れている、深夜地蔵尊の錫杖の音がする、夜中に雨が降ると堂内の地蔵尊の衣も濡れている〉」などが俗信された。

 恐山大祭や恐山秋詣りには、イタコマチ〈イタコがテントを張って軒を連ねている場所〉に多くの人が並び、イタコ口寄せが行われる。なお恐山で口寄せが行われたのは戦後になってからであり、恐山にイタコは常住していない。また恐山菩提寺はイタコについて全く関与していない。イタコは、八戸や、青森から恐山の開山期間中にのみ出張してきており、むつ市には定住していない。