ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1036話 松尾芭蕉忍者説

序文・伊賀上野出身

                               堀口尚次

 

 松尾芭蕉寛永21年 - 元禄7年〉は、江戸時代前期の俳諧師伊賀国阿拝郡(あはいぐん)〈現在の三重県伊賀市〉出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽(こっけい)から始まり、滑稽や諧謔(かいぎゃく)を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。ただし芭蕉自身は発句〈俳句〉より俳諧連句〉を好んだ。元禄2年3月27日に弟子の河合曾良(そら)を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。

 芭蕉は、寛永21年に伊賀国阿拝郡にて、柘植郷の土豪一族出身の松尾与左衛門の次男として生まれるが、詳しい出生の月日は伝わっておらず、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町〈現在の伊賀市上野赤坂町〉説と上柘植村〈現在の伊賀市柘植町〉説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。

 明暦2年、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためか、異説も多いが寛文2年に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠〈俳号は蝉吟〉に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入った。

 45歳にして『おくのほそ道』の約450里〈1768キロメートル〉に及ぶ旅程を踏破した芭蕉について、江戸時代当時のこの年齢の人としては大変な健脚であるとする見方が生じ、さらにその出自に注目して、芭蕉伊賀者忍者として藤堂家に仕えた無足人士分であるとする説や母が伊賀忍者の百地氏と関連があるとする言説が唱えられ、『おくのほそ道』には江戸幕府の命を受けた芭蕉が隠密として東北諸藩の様子を調査するという裏の目的が隠されているとする解釈も現れた。 

 

第1035話 源三位こと「源頼政」

序文・源氏の長老

                               堀口尚次

 

 源頼政は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭(ひょうごのかみ)・源仲政の長男。清和源氏としては初めて従三位に叙せられた。後世においても、源三位(げんさんみ)の通称が伝わる〈同時代的に「源三位」と称された人物は頼政に限らない〉。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政ともいう。

 保元の乱平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。

 しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した〈以仁王の挙兵〉。

 古典『平家物語』には鵺(ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記されている。それによると、近衛天皇の御世、帝が毎晩何かに怯えるようになった。その昔、帝の病平癒祈願のため、源氏の棟梁・源義家が御所にあがり、「陸奥守、源義家!」と叫んで弓の弦を三度鳴らしたところ病魔が退散し、帝の容態はみるみる回復した。そのため此度も武士を警護につけるがよかろうということになり、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった頼政が選ばれた。そして深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角〈=北東の方角〉よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留める。その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流したという。

 現存する平安期の日本刀に「獅子王」の号が付けられた太刀があり、この鵺退治の功により朝廷より頼政に下賜されたものである、との伝承がある。

 また、現在愛知県名古屋市にある徳川美術館が所有している香木の蘭奢待(らんじゃたい)のかけらは、頼政獅子王の太刀を下賜された際に同時に拝領したものであるという。

 

第1034話 謎の多い「滝川一益」

序文・織田氏の宿老

                               堀口尚次

 

 滝川一益(かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一に貢献した。

 父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清(すけきよ)といわれているが、どのような人物であったかは定説を見ない。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族〈父の従兄弟〉とする系譜もある。また、池田恒興と同族〈従兄弟〉とされる場合もある。更に中村一氏(かずうじ)〈豊臣政権三老中の一人〉は甲賀二十一家の一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない甲賀郡に対する文書で「大原」同名中の「滝川氏」として動いているものがある。

 大永5年に生まれたとされるが、尾張国織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする説の立場からは、若き頃は近江国の六角氏に仕えていたとされることがある。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄砲に長す。河州〈河内国〉にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされている。後年に水戸藩の佐々宗淳(むねきよ)〈僧・儒学者〉から織田長清に送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。

 一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった。6月10日、一益重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ」と述べたと伝わる。

 清洲会議後、信長の嫡孫・三法師が織田氏の後継者となったが、その中で一益が伊勢に帰還した。関東を失ったために立場が弱くなった一益は今後の汚名返上のために織田家の遺領の再配分を求めたが、羽柴秀吉清洲会議に参加した重臣は会議の決定を覆しかねないこの要求を拒んだ。その後、信長の三男・織田信孝は会議の決定に不満を持っていた為、三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展した。天正11年正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄蒲生氏郷(がもううじさと)の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ケ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗(にちじょう)〈僧〉の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居した。その後、伊勢の所領は信長の次男・織田信雄のものとなった。

 天正12年、今度は織田信雄徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた〈小牧・長久手の戦い〉。一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と前田長定を調略し、6月16日に伊勢白子浦から蟹江浦に3千人の兵を揚陸。先に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰を追放し、更に、下市場城、前田城を占拠した。当時、蟹江城は海に面しており、織田信雄の長島城と徳川家康の清州城の中間に位置する重要拠点であった。しかし、山口重政の守る大野城の攻略には失敗し、家康と信雄の主力に下市場城、前田城を奪還され、蟹江城も包囲されてしまう。一益は、開城交渉も含め半月以上粘ったが力尽き7月3日に開城した。しかし、退去中に攻撃されて前田長定が討ち取られ、一益は命からがら船で伊勢に逃れている〈蟹江城合戦〉。

 尚、失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄った。ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民〈大滝神社を中心とする、平泉寺傘下の在地勢力〉が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られた。一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっているが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点まで前波吉継〈朝倉氏・織田氏の家臣〉の話と酷似しており、混同も推測される。

 

第1033話 保安官

序文・西部劇でおなじみ

                               堀口尚次

 

 保安官は、アメリカ合衆国公安職。その所掌範囲は設置者によって異なるが、裁判所の警備、刑務所の警備、被疑者・収監者等の移送、民事執行、陪審員に対する召喚状送達ほかの行政上・司法上の事務も行う

 アメリカ合衆国の植民地時代の警察機構は、イギリスによるアメリカ大陸の植民地化に伴って本国から持ち込まれたものが基本的に踏襲されていた。その原型となったイギリスの代表的な公安職は下記のようなものであった。

①『シェリフ』 国王からシャイア〈州。現在のカウンティの前身〉ごとに派遣された代官。当初は「シェアリーブ」〈州代官〉と称されていたが、後に訛って「シェリフ」となった。

②『マーシャル』 裁判所の運営にあたる廷吏。法廷内の秩序維持や令状の執行、囚人の護送などにあたっていた。

③『コンスタブル』 最初期は隣保組織の長〈十人組長〉がこう称されていたが、後に1年任期制・無給で地域住民から選ばれる法執行官を指すようになった。

 イギリスでは、地域の秩序・平和を維持する責任は地域住民各々が負うべきであるという自治の意識が強く、家族や地域住民による隣保制の時代が長かった。北アメリカの植民地でもこの理念は踏襲され、またアメリカ大陸の地理的条件などもあって、まずは隣保制や、その延長として地域住民に依拠した公安職が主となった。また人が集まって町を形成した場所では法廷も開廷し、これに伴ってマーシャルも任命された。その後植民が進むと、各植民地政府は植民地内を郡〈カウンティ〉に分割し、それぞれに代官としてシェリフを配した。このシェリフが、後の郡保安官の原型となる役職である。

 これらの制度は、アメリカ合衆国の独立度後もそのまま引き継がれ、また独立後の1789年には、連邦政府も自らの法執行官として、独立十三州に1人ずつのマーシャル〈連邦保安官〉を配置した。しかし独立十三州を始めとする東部諸州ではこのような制度が整備されていた一方で、西部開拓時代のフロンティアでは管轄人口が少ないこともあって統治機構自体が小規模で、1人で多役を兼任することも多く、シェリフやマーシャル、コンスタブルの区別も曖昧になっていた。また特に開拓の最前線は実質的に無政府状態となっており、犯罪率も高かったのみならず、西部開拓はアメリ先住民族の生存圏への侵略でもあったことから、彼らとの武力衝突も頻発していた。このため、開拓民は自警団を組織するとともに、銃の名手を用心棒として雇うことが多かったが、この用心棒もシェリフやマーシャルと呼ばれており、こちらも後に郡保安官の制度に組み込まれていった。

 植民地政府が郡ごとに配したシェリフを起源とするが、上記の経緯より、マーシャルやコンスタブルと称されることもある。通常は、住民による選挙で選ばれる単独の公選職であるが、これだけでは手が回らないため、指揮下に警察組織を編成して、実業務はこちらに代行させることが多い。この指揮下の人員は、保安官補〈保安官助手とも〉と称されるのが通例である。本来的には、郡の一般警察業務を一手に担っていたが、都市化とともに自治体警察の設置が進むと、これらが管轄しない非法人地域や、自治体は発足しているが警察を保有しない地域を管轄することになり、日本にかつて存在した国家地方警察に近い性格となっている。また開拓期には自治体の多くの地方に設置されていたマーシャルも、多くはシェリフとの統合により代替されて廃止されたものの、一部では現在でも存続している。

 なお、東部〈ミシシッピ川以東の各州〉では郡保安官が治安の維持にあまり重要な役割を負っておらず、非法人地域での警察活動は主として州警察が行っている場合が多いのに対し、西部〈川以西の各州〉では郡保安官が警察組織に近い大規模な保安官事務所を設置して重要な役割を担い、州警察は街道上の治安維持〈ハイウェイパトロール〉や広域犯罪捜査〈州捜査局〉のみを担当する場合もある。

 

第1032話 父や兄を殺した斎藤義龍

序文・身内下剋上

                               堀口尚次

 

 斎藤義龍(よしたつ)〈大永7年または享禄2年- 永禄4年〉は、戦国時代の武将、美濃国戦国大名、道三流斎藤氏の第二代当主〈美濃一色氏初代とする説もある〉、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅう)〈役職的な身分の一つ〉である。

 大永7年、斎藤利政〈後の道三〉の長男庶子〉として生まれる。母は側室の深芳野。幼名は豊太丸、元服後は利尚、高政と名を変えている。

 天文23年2月22日から3月10日の間に、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となったとされる。この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。なお、天文17年相続説や、道三の隠居〈義龍稲葉山城を譲り、自身は鷺山城に移動〉は『美濃国諸旧記』で述べられているが、『信長公記』や『江美濃記』などの信頼性の高い史料に記述が無く、道三は隠居していないという説もある。

 その後、道三は義龍を「耄者(ほれもの)〈愚か者〉」と断じ、「利口者」の弟・孫四郎や喜平次らを溺愛するようになる。一方の義龍も、父の政策と立ち居振る舞いに対して不満と危機感を募らせていく。ついには道三が義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせたことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。

 弘治元年、義龍は叔父とされる永井通利と共謀して孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させたため、道三は大桑城に逃走した。なお、『美濃明細記』の分析により、実は喜平次のみは殺害を免れて生き延び、弟とされる利堯になったとする説があるが、この説は成立せず、やはり二人同時に殺害されたとするのが妥当とする反論がある。この生存説かつ同一人物説の根拠とされているのは喜平次と利堯が「玄蕃」という通称・仮名を用いていることである。

 弘治2年、義龍長良川にて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした長良川の戦い〉。また、明智氏など道三に味方した勢力も別動隊を用いた迅速な用兵でほぼ同時期に攻め滅ぼしている。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。

 

第1031話 ギャング「アル・カポネ」

序文・密造酒

                               堀口尚次

 

 アル・カポネ(1899年 - 1947)は、アメリカ合衆国ギャング禁酒法時代のシカゴで、高級ホテルを根城に酒の密造・販売・売春業・賭博業の犯罪組織を運営し、機関銃を使った機銃掃射まがいの抗争で多くの死者を出したことでも知られている。一方で、黒人やユダヤ人を差別しなかったことも伝えられている。頬に傷跡があったことで「スカーフェイス〈疵面(しめん)=傷のある顔〉」という通り名があった。家族は妻のメエと息子のソニーがいる。

 酒の密売については、「俺は人々が望むものを与えてきた。なのに俺に返ってくるのは悪口だけだ」と言っていた。ボクシング世界チャンピオンのジャック・デンプシーとは友人だった時期もあり、試合前には花束を贈ったりもした。デンプシーもアルのことを「最高のファンの一人」と言っていた。

 アルはその陽気な性格からマスコミにも取り上げられることが多く、自らも生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行うなど大衆の支持獲得に腐心した。しかしその金は汚い、もしくは違法に稼いだ金が元であった。

 アルは世の中について「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養うために盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある。この稼業に入るまでは悪徳政治家など、世の中には高価な服を着て偉そうな話し方をする悪党がこんなに多いとは知らなかった」と、自らのことは棚に置き、コーネリアス・ヴァンダービルトのインタビューで答えている。

 ギャングとは、もともとは、オランダ語やドイツ語で「行進」「行列」「通路」を意味する言葉であった。これらの言葉が港湾で使われるうちに海外へ伝わり、また意味も変遷して、船内荷役作業員・沖仲仕〈港湾労働者〉の集団を指すようになったと考えられている。現代でも、海運業界は荷役作業員のユニットの意味でギャングという言葉を用いている。

 高賃金で体力勝負の一方で、多くが日雇いであり労働災害も多い港湾・船舶の労働現場は、荒くれ者が自分たちの利益を守るために強固な集団を形成していることが多く、また、密輸などの組織的犯罪とも近縁の存在であった。そのため、アメリカの禁酒法時代に、暴力的犯罪者集団を特に「ギャング」と呼ぶようになり、以降現代で使われる暴力的犯罪集団の意味が強くなった。

 

 

第1030話 キリシタン大名・高山右近

序文・洗礼名ジュスト

                               堀口尚次

 

 高山右近〈天文21年- 慶長20年〉は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名である。代表的なキリシタン大名として知られ、カトリック教会の福者でもある。父は摂津国人・高山飛騨守。

  右近の生年は日本側の史料に所見がなく、外国側史料でも一致しないが、後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄6年に10歳でキリスト教洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近ジュストの洗礼名を得た。

 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

 飛騨守の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが〈実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している〉、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。

 慶長19年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督らから歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年に息を引き取った。享年63。