ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1609話 日本の原子爆弾開発

序文・最高軍事機密

                               堀口尚次

 

 第二次世界大戦中、日本軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。大日本帝国海軍F研究核分裂を意味するFissionの頭文字よりと、大日本帝国陸軍の「ニ号研究仁科芳雄の頭文字よりである。

 海軍で一番早く原子爆弾に注目したのは、海軍技術研究所伊藤庸二技術大佐で、1939年頃であった。また、1940年頃、ドイツの『ニトロチェルローゼ』という火薬の専門誌に火薬の権威アルフレート・シュテットバッハーによる「アメリカの超爆薬」という題の論文が発表されていたところ、海軍火薬廠村田勉技術少佐がこの論文を翻訳し、海軍艦政本部、海軍火薬廠、各海軍工廠の幹部に配った。この論文には「約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」とあった。海軍は1941年5月、荒勝に原子核分裂の技術を用いた爆弾の開発を依頼したF研究。火薬を専門としていた、艦政本部の千藤三千造大佐、(いそ)(めぐむ)大佐、三井(また)()大佐もこの論文「アメリカの超爆薬」に着目しており、ぜひ海軍で研究しなければならない、という話になった。三井の回想によれば1941年10月、磯大佐からもちかけられた。1941年11月、アメリカの不審な動きウラン鉱石の国外持ち出し禁止などを察知して知友である東大医学部の日野寿一と理学部の嵯峨根遼吉原子爆弾の開発を相談した。両名ともその調査の必要性を力説した。その月の終わりまでに海軍技術研究所の上司・電気研究部長佐々木清恭海軍少将にこの件を(はか)った。佐々木は日野、嵯峨根の意見を聞き、関係方面と交渉の結果、海軍技術研究所の責任において調査に乗り出すことに決定した。ただし、この計画書の目的は「原子力機関」となっていて、「原子爆弾」の文字は無い。もちろん、本当の目的は原子爆弾であったが、刺激的な文句は使うまいという心遣いであった。

 このことから海軍技術研究所は1942年、原爆研究機関「核物理応用研究委員会」も発足させ、第一回の会合を7月8日東京・芝水交社で開催した。メンバーは理研の長岡半太郎、東大の西川正治、嵯峨根遼吉、日野寿一、水島三一郎、阪大の浅田常三郎、菊池正士東北大渡辺寧、仁科存、東京芝浦電気マツダ支社の田中正道らであった。この委員会は1943年3月6日まで十数回開催された。しかし、戦局が進むにつれ「電波兵器レーダー研究担当の立場にある者が余分なことに力を浪費している」との批判が部内から出たため、この研究は中止されることになった。研究の中止に際して伊藤大佐は「だれかほかに代わってやってくれる人はないものか」と嘆いたという。この委員会で出された結論は「原子爆弾は明らかにできるはずだ。ただ、米国といえども今次の戦争中に実現することは困難であろう」というものであった。その頃、仁科が陸軍航空本部の川嶋虎之輔大佐に「あちこちから原爆原爆と言われても困るから軍の窓口は航本航空本部のこと一本にまとめてほしい」旨の要望をしたことから、研究の主体は自然と陸軍に移っていった。

 1940年4月、陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将は、部下の鈴木辰三郎に原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じた。鈴木が指名されたのは、当時、原子核物理学を学んだ者が陸軍では鈴木と新妻精一の2名だけだったからである。安田が原子爆弾を着想したのは、ただの思い付きではなかった。安田は当時盛んになってきた原子核物理学に早くから関心を持ち、理化学研究所の仁科芳雄や仁科研究室の若い研究者を航空技術研究所に招き、原子物理学概論の講演をしてもらっていた。これは将来必ず原子爆弾が実現すると考えて、若い軍人たちにも知ってもらうためであった。

 そして、1940年5月3日付けの理研の仁科芳雄と東京帝国大学理学部化学科の木村健二郎等の論文には、ウラン238高速中性子を照射した実験において核兵器の爆発によって生成することが知られているネプツニウム237を生成したことが記され、同年、米国の物理学誌『フィジカル・レビュー』に掲載された。また、同実験では、1回の核分裂で10個以上の中性子が放出され核分裂連鎖反応超臨界を伴うことが知られている対称核分裂による生成物が生成されたことが、「高速中性子によって生成されたウランの核分裂生成物」と題して、同年7月6日付けの英国の科学雑誌ネイチャー』に掲載された。

 鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉の助言を得て、2か月後に原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布したこの時点ではまだ軍事機密ではなかった

 陸軍航空技術研究所1941年6月20日、理化学研究所の大河内正敏所長に秘密裏に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究を委託する公式文書を発出。これを受けて仁科研究室を主宰する仁科は原子爆弾の開発に向けた基礎研究に本格的に始動した。 その2年後、仁科は1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。

 この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川嶋大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった。

 1945年4月13日アメリカ軍による東京大空襲で熱拡散筒が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった。その後、山形、金沢、大阪での再構築を始めたが、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。結局日本の原爆開発は最も進んだところでも基礎段階を出ていなかった。

 日本は、8月6日広島市への原子爆弾投下8月9日長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日ポツダム宣言を受諾した。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾され、当時のアメリカ陸軍長官であるロバート・ポーター・パターソンが破壊を誤りと認めたただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている

 F研究責任者だった荒勝文策の当時の日誌によると、1945年11月20日に進駐軍将校が来訪し、荒勝は「全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のもの」と抗議したがGHQの命令として受け入れられず、施設破壊後の実験室を「惨憺たる光景であった」と記している。荒勝には施設破壊ばかりではなく研究関連文書やウラン・重水などの提出も求められた。荒勝は「実験ノートだけは残してほしい」と懇願したが、聞き入れられなかった。サイクロトロン破壊や研究室捜索にGHQ通訳として立ち会ったトーマス・スミスは、基礎研究を妨害してしまったことに責任を感じて退役し、回想記を著した。没収されたノートの一部はアメリカ合衆国議会図書館で保管されていたことが2006年に確認されたほか、2015年にはF研究に参加した清水栄のノート3冊が京都大学で発見された。

 その後、1947年1月に極東委員会が原子力研究の禁止を決議し、占領が終了するまで原子核の研究は一切不可能となった。

 

第1608話 ドイツにもあった特攻隊

序文・カミカゼ戦法

                               堀口尚次

 

 ゾンダーコマンド・エルベは、第二次世界大戦末期にドイツ空軍が編成した部隊である。米第8空軍によるドイツ本土爆撃が激化する中、これを体当たり攻撃によって阻止あるいは妨害することを目的として編成された。日本ではエルベ特別攻撃隊エルベ特攻隊とも呼ばれる。

 1944年、『フェルキッシャー・ベオバハター』紙は日本海軍が編成した神風特別攻撃隊に関する記事を掲載した。以前から爆撃機への対策としての体当たり攻撃を思案していたハヨ・ヘルマン空軍大佐は、この戦法が周囲で話題になっていた事やドイツ空軍でも個人の判断で敵機への体当たりを試み撃墜に成功した事例が知られていた事から、大島浩駐独大使をデーベリッツの司令部へと招き"カミカゼ戦法"に関する詳細を得た。ヘルマンは日本側が主張する戦果については懐疑的だったが、最後の手段として劇的な戦法を試みようと考えたのである。当初、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングや総統アドルフ・ヒトラーはこの自殺行為としか思えない提案に否定的で、特に第一次世界大戦撃墜王でもあるゲーリングは「自滅を前提とするのはゲルマン的な戦い方ではない」と語ったという。しかしヘルマンは物資の不足とジェット機の有用性を訴え、その上で「体当たり攻撃で爆撃の足を止めて時間を稼ぎ、ジェット機の生産を確保したい」と主張し、最終的にはゲーリングもこれを受け入れた。ヒトラーは作戦の承認に際して、「体当たり攻撃は命令に基づくものではなく、あくまで自由意志で行われるべきである」と強調したという。

 ただし、ヘルマンや『ヒトラーの特攻隊』著者の三浦耕喜は、こうした高官らの態度は人道上からの懸念というより、むしろ無責任な臆病さの発露であると指摘している。事実、ゲーリングはヘルマンが作成した草案から「空軍総司令官たる自分が部隊を訪問し激励する」という旨の一文を削除した上で命令文を発行している。

 この提案により、1944年末から翌1945年初頭にかけて各地の空軍部隊から志願者が募られた。その生還率は10%とされていたが、募集の際には防諜上の理由から「自己犠牲的任務」なる語は用いられず、部隊名も「エルベ教育課程」と伝えられた。

 

第1607話 非戦闘地域

序文・自衛隊が活動しているのが非戦闘地域

                               堀口尚次

 

 非戦闘地域とは、一般的には「直接武力攻撃を受けない地域」を意味する。日本は憲法で戦争を放棄しているため、自衛隊は各法令を根拠に「非戦闘地域でしか行動できない」と定義され、ここで人道的支援、または戦闘中の他国の軍の後方支援などを行っている。

 日本には日本国憲法第9条で定められている戦争の放棄に関する条項がある。しかし実質的に戦闘能力のある自衛隊を海外に派遣し、かつ他国の軍隊と共に活動することは戦争に加担することではないか意見が分かれるところである。  

非戦闘地域の定義非戦闘地域の考え方は、重要影響事態法中の「後方地域」の定義のなかで示され、自衛隊インド洋派遣テロ特措法自衛隊イラク派遣イラク特措法にも引き継がれたもので、次の定義によるものである。

「現に戦闘行為国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる」地域

国際的な武力紛争とは「国または国に準ずる組織の間において生ずる一国の国内問題にとどまらない武力を用いた争い」平成15年6月26日衆議院特別委員会石破茂防衛庁長官の答弁

戦闘行為の判断戦闘行為か否かの判断については、石破茂防衛庁長官当時が答弁平成15年7月2日衆院特別委のなかで以下のように説明している。戦闘行為の判断基準「当該行為の実態に応じ、国際性、計画性、組織性、継続性などの観点から個別具体的に判断をすべきもの」戦闘行為に当たらないもの「国内治安問題にとどまるテロ行為、あるいは散発的な発砲や小規模な襲撃などのような、組織性、計画性、継続性が明らかではない、偶発的なものと認められる、それらが全体として国または国に準ずる組織の意思に基づいて遂行されていると認められないようなもの」国または国に準ずる組織とは「フセイン政権の再興を目指し米英軍に抵抗活動を続けるフセイン政権の残党というものがあれば、これは該当することがある」「フセイン政権の残党であったとしても、日々の生活の糧を得るために略奪行為を行っている、こういうものは該当しないと評価すべき」問題点後方支援は「戦闘地域」に含まれる可能性があるという指摘もあり、論議が続いている。

 

第1606話 白旗

序文・白い旗の意味

                               堀口尚次

 

 白旗は、広義では無地で白色を指す。

 近代以前の社会においては、日本武士集団にこれを軍旗とする例が見られ、近代以降でもフランス海軍における軍艦旗としての使用例がある。また18世紀末のフランス革命期に始まる王党派や、あるいは共産主義赤色に対する反共主義の旗も白旗であった。

 しかし、近代以降に成立した国際社会にほぼ共通する認識では、戦時国際法に基づき、戦争において交戦対象にあたらないことを、相手に知らせるための表明手段としての旗の一つであり、停戦交渉降伏の際に用いられるものである。しばしば誤解されがちだが、あくまで非交戦状態であることを表明する物であり、降伏の宣言と言う訳ではない。また逆に敵に対して降伏を促す使者も白旗を用いて相手方に出向く。

 近代以降に成立した国際社会では、戦時国際法に基づいた一つの認識をほぼ全ての文明社会人が共有している。その社会の範疇にあって、白旗は、交戦対象にあたらないことを相手に知らせるための表明手段としての旗の一つであり、使用者を限定しない唯一の旗である。戦意を維持しないもはや交戦相手ではない降伏の意思があることなどを相手に知らせるための旗である。逆に交戦相手に対し降伏を促すための軍使も用いる。また、応用として、敵意を持たないもともと交戦相手ではないことを明示するために使用される場合もある。

さらには、ここから転じて、白い旗を用意できない場合には代用品の使用が認められる。それは平面状で白地の面積が十分に広い物たとえば白無地の肌着であれば、相手に理解されることを期待できる。また、正規の白旗であれ代用品であれ、それを左右に振ることは掲げることに増して明確な意思表明と理解される。

【私見】NHKスペシャル「白い旗 水木しげると硫黄島」を観た。水木しげるの戦記漫画をに、戦時下の硫黄島で部下の命を救おうとした軍人の実像へ迫る番組だった戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」を忠実に守ろうとした隊長と部下の命を守ろうとした隊長のどちらが正義なのだろうか。水木は答えを出さずに読者に考えて欲しいとした。

 

第1605話 魚釣島

序文・領有権

                               堀口尚次

 

 魚釣島は、琉球列島の一部である尖閣諸島にあり、尖閣諸島の中では最大の島である。日本の行政区分では沖縄県石垣市登野城尖閣2020年10月1日に登野城より分離に属する。中華人民共和国中華民国も同島の領有権を主張している。中国側は同島について釣魚島ディァオユーダオ という名称を使用している。

 尖閣諸島の西端、北緯25度44.8分、東経123度28.8分に位置する無人島沖縄本島から約410キロメートル、石垣島から北西約170キロメートル、台湾島から約170キロメートル、中国大陸からは約330キロメートル離れている。

1895年から日本領有し、明治時代古賀辰四郎が開拓して島の西岸に鰹節工場が作られ、船着き場も作られた。船着き場は空中写真でも確認でき、魚釣島灯台の建設や保守にも使われた。最盛期は248名、99戸が生活する古賀村が形成されていたが、1940年に事業中止に伴って無人島となった。

 1970年代から埼玉県さいたま市在住の日本人が私有し、日本国政府は2002年から年2112万円で賃借していたが、2012年9月11日に北小島南小島とともに3島を20億5千万円で購入し、日本国へ所有権移転登記を完了した。上陸は許可を要する。島への定期船は無く、上陸や見学には漁船チャーターする必要がある。

 日本の行政区分では沖縄県石垣市字登野城尖閣2392番地にあたる。1895年から日本が領有し実効支配しているが、1970年頃から中華民国中華人民共和国も同島の領有権を主張している。日本名の「魚釣島」について日本政府は地元で呼ばれている名称を地方公共団体が調査し使用しているとしている。 1885年、日本の公図を作る際、沖縄県職員石澤兵吾は、琉球国元官僚の大城永保から聴き取りを行ったが、大城は魚釣島に関し『釣魚島』と示しました。」琉球ではゆくんよこんといった。石垣島出身の国語学・民俗学者の宮良当壮は、「よこん」の「よ」は「いを」魚の古語の琉球方言、「こん」くんは「くに」の琉球方言であり、「よこん」は「魚國」いをくに、つまり魚が多いところという意味であるとする。

 

第1604話 キスカ島撤退・奇跡の作戦

序文・木村少将の英断

                               堀口尚次

 

 キスカ島撤退作戦は、太平洋戦争中の昭和18年5月27日から7月29日に行われた、日本軍キスカ島メリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島からの守備隊撤収作戦のことである。正式名称はケ号作戦。北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮を取った。第一期撤収作戦は、5月下旬から潜水艦による作戦が実施された。しかし成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えることとなった。第二期撤収作戦は、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した。同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に見事に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる

 日本軍の軍医は、上陸するであろう米軍への悪戯として『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を、兵舎前に残して去った。通訳士官として従軍していたドナルド・キーンが、これを翻訳すると、上陸部隊は一時パニック状態に陥り、大量のペスト用血清を要請する電文が、サンフランシスコに向けて急遽打たれた。地下司令部には、星条旗で仕立てた座布団がテーブルの周りに敷かれ、黒板には「おまえたちは、ルーズヴェルトの馬鹿げた命令に踊らされている」と書かれていた。

 この作戦は、玉砕を強いて無慈悲に兵を見捨てる軍上層部が、例外的に救援を優先したかのように取り上げられることが多い。たとえば、同時期より少し以前に行われたガダルカナル撤収作戦作戦名は同じくケ号作戦であるが「捲土重来」のケ等に関しても海軍は非常に消極的であった。実際、この作戦自体が5月20日の大本営におけるアリューシャン方面の対策会議この会議でアリューシャン方面の放棄が決定で、陸軍が求めていたアッツ島の救援を断念する代わりに海軍はキスカ島だけは何としても救援する、という陸海軍間での妥協の産物であった。

 救出艦隊の指揮を執った木村少将の戦術指揮には高い評価が与えられている。特に1度目の出撃で天候に利が無いと見て、各艦長の突入要請を蹴って反転帰投を決断したことが焦点となる。当時の海軍の状況は切迫しており、戦力として貴重な艦艇を無駄に動かす結果になることや、欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、またそれによる上層部や各所からの批判なども当然予想されることであった。また、近年の研究で木村少将が総合的な判断から収容時間が1時間が限界で、兵士収容作戦を迅速に完了させるべく、陸軍側に全ての兵器の海中投棄を求めた際、アッツ・キスカ方面の陸軍守備隊司令官を務めていた樋口季一郎大本営並びに陸軍省上層部に決裁を仰がず独断を以て承認した。キスカ撤収作戦後、この一件を知った陸軍上層部から海軍に対する抗議がなされることになったが、樋口は欧州に大使付き駐在武官として赴任していた経験から、人命第一だと抗弁していたことが判っており、木村樋口というふたりの陸海軍現地司令官の決断力も作戦遂行に際して重要な鍵を持つこととなった

 木村は、隠密作戦に必要な濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事はしなかった。1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも、霧が晴れた為突入を断念。強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、帰ればまた来られるから」と諭して帰投し、状況をよく判断した指揮を行った。痺れを切らした軍令部や連合艦隊司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、旗艦で釣りをしたり、司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある一方、百神の加護を願う漢詩を詠んでいる。上層部の批判に心動かされること無く慎重を重ねた指揮を行い、2回目の出撃では濃霧に恵まれたこともあり、アメリカ軍に作戦を悟られず、味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を短時間で救出する。この作戦成功により昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。

 尚、日本によるキスカ島占領中に撃墜された米軍爆撃機のパイロットたちの遺体は丁重に葬られており、木製の墓標に"Sleeping here, a brave air-hero who lost youth and happiness for his Mother land. July 25 Nippon Army"祖国のため青春と幸せを失った空の勇士、ここに眠る。7月25日 日本陸軍と英文で記されていた。

 

 

第1603話 キスカ島に置き去りにされた軍犬

序文・軍用犬の運命

                               堀口尚次

 

 近代以降において、大日本帝国陸軍では日清戦争日露戦争にて警備犬としての犬の運用が少数みられ、明治43年には台湾の高砂族の武装蜂起に際して探索犬として警察犬の供給を受け運用した記録が残るが、組織としての軍犬の本格的な運用は、第一次世界大戦以降、日本国内にジャーマンシェパードの移入が行われて以降である。陸軍歩兵学校内に軍犬育成所が置かれ、シェパードを中心にドーベルマンエアデール・テリアも用いた軍用犬の育成が行われた。昭和3年には民間団体として日本シェパード犬倶楽部が発足し、軍や警察へのシェパードの供給が行われるようになり、昭和8年には軍用犬の受け入れ窓口として社団法人帝国軍用犬協会も発足した。満州事変で殉死した那智・金剛に初の軍用犬功労章甲号が授与された。

 こうした民間からの供給経路を経て育成された陸軍の軍用犬満州事変以降、伝令犬や警備犬として中国戦線で顕著な活躍を見せ、人間の兵士同様に犬の出征壮行が行われる例も見られるようになる。昭和14年には、「軍用犬の出征」というタイトルの子供向きニュース映画朝日新聞社により製作された。満州国の成立以降は関東軍軍犬育成所を満州国領内に設立し、最盛期には3,500頭以上の軍用犬を飼育、同時期に大日本帝国海軍も警備犬として軍用犬の導入を開始した。しかし、太平洋戦争以降は連合軍側の軍用犬戦術が向上した事もあり、次第に日本側の軍用犬の活躍は見られなくなっていった。沖縄戦でも日本兵と共に多くの軍用犬が戦い、その殆どがパートナーの兵士共々戦死している。日本の軍用犬は勇敢であったが近代兵器の攻撃には余りにも無力であり、皮肉にもこの事実がアメリカ軍を始めとする近代的な軍隊から攻撃犬としての軍用犬の運用を排除する契機にもなった。

 同時期、日本国内でも昭和19年より犬猫献納運動により種別を問わず多くの犬や猫が皮革を得る材料として屠殺され、結果として日本軍の軍用犬の供給経路も消滅する事となった。前線の軍用犬も敗走の際の飢餓により、軍馬と共に友軍兵の手で食料として屠殺される例が少なくなく、敗戦後も多くの日本軍犬復員船で帰還する事も叶わず、そのまま戦地に遺棄される事となった。不利な戦況の中、無血撤退に成功し奇跡とも讃えられるキスカ島撤退作戦でも、軍犬が置き去りにされている。日本軍の武装解除に当たっては各種の軍用動物も重要な鹵獲(ろかく)対象として位置付けられ、軍馬などは中国軍国民革命軍八路軍に引き渡されて運用が続けられる例もあったが、軍用犬の場合は新しい主人に懐かないなどの問題からその場で敵軍に殺害される例も少なくなく、エアデール・テリアがイギリス軍に整然と引き渡された僅かな成功例が残る程度で、結局日本国内に無事に帰還出来た軍用犬は僅か数頭に過ぎず、一頭も帰還していないとされることもある。靖国神社にはこうした戦地に(たお)れた軍用犬を祀る軍犬慰霊像が建立されており、例年3月20日の動物愛護デーに軍犬慰霊祭が行われていたが、平成24年以降は軍馬や軍鳩との合同での慰霊祭が、例年4月7日の愛馬の日に行われるようになった。

 その一方で、国内に残された訓練中の犬も日本軍の解体により行き場を失い、戦後の食糧不足の中、口減らしの為に殺処分されたり食料となる前提で市場に放出されるなどして、多くは悲惨な末路を辿っていったとされており、日本シェパード犬協会の理事であった中島基熊は、戦時中の軍の威を借りた横暴な振る舞いに加え、終戦直後の犬に対する劣悪極まりない仕打ちを忘れたかのように日本警察向けの警察犬、極東米軍や東南アジアに於ける西側同盟国軍向けの軍用犬供給に邁進する連合国軍占領下の日本におけるブリーダーや関連団体に対して「軍犬報国の看板を警察犬に塗り替えただけの人間は、慰霊祭を行って犬に詫びるべきだ」という主旨の痛烈な批判文を残している。