ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1047話 「こいのぼり」の悲しい風習

序文・武家と尚武

                               堀口尚次

 

 こいのぼり〈鯉幟〉は、日本の風習で、江戸時代に武家で始まった端午の節句男児の健やかな成長を願って家庭の庭先に飾る鯉の形に模して作ったのぼり。紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描いたもので、風を受けてたなびくようになっている。皐幟(さつきのぼり)、鯉の吹き流しとも言う。日本鯉のぼり協会の統一見解では屋外に飾るものを「鯉のぼり」、屋内に飾るものを「飾り鯉」という。

 節句の行事は平安時代からとされているが、もともと武家には端午の節句に向けて玄関に幟や旗指物を飾る風習があった。端午の節句には厄払いに菖蒲(しょうぶ)を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。

 江戸時代中期になると商人がこの風習を行うようになった。ある町人が幟の竿頭の招代(おぎしろ)と呼ばれる小旗のようなものを中国の登龍門の故事から鯉を象ったものにかえて掲げたところ、それが広まり次第に大型化したものが鯉のぼりとされている。

 愛知県瀬戸市宮脇町では、小牧・長久手の戦いにて、戦いの落ち武者をのぼり用の竹で殺めた伝承から”鯉のぼりを立てた家には不幸が訪れる”との言い伝えにより鯉のぼりを掲げないことが慣習化されている。

 埼玉県児玉郡神川町の矢納地区では、平安時代中期に平将門がこの地に逃れて城峯山に籠った際、民家に揚げられていたこいのぼりのせいで所在が敵に知られてしまい、敵方はこいのぼりを目標にしたことから結果として将門は戦いに敗れてしまった。そのため「こいのぼりを揚げるとその家が不幸になる」として、現在でもこいのぼりを揚げる風習がない。

 京都府亀岡市大井町にある大井神社では、祭神が鯉に乗って保津川の急流を上ってきたという伝承から鯉が神の使いとされ、氏子が鯉に触れることを禁じている。そのため大井町では端午の節句こいのぼりを揚げることも行われない。

 広島県福山市をはじめ備後福山藩だった地域では、福山水野家最後の藩主となった水野勝岑(かつみね)が5月5日に亡くなったことから、福山水野家にかかわった子孫の家では、こいのぼりを揚げないという風習が生まれた。