ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1054話 移植に耐えた「荘川桜」

序文・ダムの底に沈んだ村からの移植

                               堀口尚次

 

 荘川(しょうかわ)桜は、岐阜県高山市荘川町中野〈旧荘川村〉の国道156号沿い、御母衣(みぼろ)ダム湖岸に移植された樹齢450年と推定される2本のエドヒガン〈サクラ〉の古木。ごく淡いピンク色の花弁とごつごつした幹が特徴。樹高約20m、幹囲目通り約6m。岐阜県指定天然記念物。 御母衣ダム建設によってダム湖底に沈む運命にあった桜を昭和35年12月、ダムを建設した電源開発株式会社の初代総裁高碕(たかさき) 達之助の発案で、同社により移植され、保守されている。 移植後、桜のあった旧荘川村に因んで「荘川」と名づけられた

 昭和35年、御母衣ダム建設により水没する予定地を視察中、光輪寺の庭にあった巨桜を見たダム建設事業主である電源開発株式会社の初代総裁高碕達之助は「なんとかこの桜を救えないものか」と、市井の桜研究家で「桜男」とも称された当時の桜研究の権威笹部新太郎に移植を依頼した。当初笹部はその困難さから、これを固辞したものの、高碕の熱意に絆され、結局は引き受けることとなった。その後、桜移植の事前調査にあたるため同地を訪れた笹部は、同様の桜の巨樹が照蓮寺にもあることを知り、この桜も移植することを提案し、2本同時に移植することとなった。

 笹部指導の下行われた移植工事は、当時東海地方で随一の移植技術を持つと謳(うた)われた造園業・庭正造園の植木職人・丹羽政光らによって当時常識とされていた手法を覆すような新手法をいくつも取り入れて行われたが、世界的にも例がないといわれるほど大がかりなものであったうえ、樹齢400年以上という老齢とその巨体、更に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われるほど外傷に脆弱な桜を移植することもあり、困難を極めた。可能な限り枝や根を落とした桜をダム水面上となる丘まで運搬し、移植したが、無骨な幹だけの姿は無残な姿にも見えたため、当時、笹部や高崎には水没地住民や世間から「むごい仕打ち」「いずれ水没するのに追い討ちをしなくても」などと非難が集中した。

 しかし笹部・丹羽の目算通り、その翌昭和36年春、桜の活着が確認。移植以来、同社の継続した保守管理もあり以降も年々枝葉を伸ばし続け、現在はかつてのように美しい花を咲かせている。尚、国鉄バス名金急行線の車掌佐藤良二が、荘川桜が見事に開花したことに感動し、国鉄名金線の沿線に桜の苗木を植え続けたことから、名金線の沿線は「さくら道」と呼ばれるようになった。