ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1103話 命の恩人・斎藤実盛を討ってしまった木曽義仲

序文・むざんやな甲のしたのきりぎりす

                               堀口尚次

 

 斎藤実盛(さねもり)は、平安時代末期の武将。貴族・藤原利仁(としひと)の流れを汲む斎藤則盛の子。越前国の出で、武蔵国幡羅(はら)郡長井庄〈埼玉県熊谷市〉を本拠とし、長井別当と呼ばれる。

 武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢(よしたか)という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下(ばくか)に伺候(しこう)するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう〈大蔵合戦〉。実盛は再び義朝・義平父子の麾下(きか)に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重(しげ)能(よし)から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曽義仲である

 保元の乱平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛(これもり)の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

 寿永2年、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の将・手塚光盛によって討ち取られた

 この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実験の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを武将・樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという

 松尾芭蕉は『奥の細道』の途上で小松を訪れて実盛を偲び、今も多太神社に現存する実盛の甲を見て「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだ。