ホリショウのあれこれ文筆庫

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第968話 源氏塚と源義朝伝説

序文・源義朝の逃避足跡を追う

                               堀口尚次

 

 愛知県海部(あま)郡蟹江町に「源氏塚」なる史跡がある。町のホームページによると『この辺りは平安時代の末期ころ広々とした海でところどころに島が点在していました。平治元年都では平治の乱が起こり平清盛に敗れた源義朝(よしとも)一行が東国に落ちに延びる折、美濃の国・青墓(あおはか)〈現在の大垣市青墓〉から養老、荷の上を通り内海(うつみ)の庄・野間(のま)へ船で落ち延びる途中この小島にしばし船を止め休息し蟹江の漁民のもてなしを受け漁船により内海に送り届けられたと言い伝えられています。人々はいつとはなしにこの地を源氏の大将が休息した島「源氏島」と呼ぶようになりました。なお源義朝は野間にて地元の豪族「長田(おさだ)忠致」に謀(はか)られ、38歳の若さで非業の最期を遂げました。』とあります。

 源氏塚のすぐ近くに「源氏島八幡社」があり、設置説明書きによると『その昔、源氏八幡社東側の50メートルあたりが源氏島史跡の浮島でした。源氏大将・源義朝公は、平安末期の平治元年京の都で平治の乱に敗れた源義朝一行を連れて東国に遁れる途中、家来を近江国で分散させて東国に向かわせ、義朝自身は身内のみ引き連れて、ひとまず美濃国大谷の里の妾の延寿と子の夜叉御前のいる美濃国青墓宿の大炊兼遠の館に辿り着いた。源義朝は休息をとっている間に、嫡男の悪源太義平と家人平賀義信を国に向かわせ、大炊兼遠に二男源朝長の弔いを頼み、源義朝公一行は館を敵に囲まれ、従弟の佐渡式部大夫重成が敵に気づき、館から飛び出して源氏大将・義朝公の身代りになり、敵の平家を子安ノ森に誘い出し見事な最期を遂げ、この間に大炊兼遠の弟・養老鷲巣村の根取り剃髪頭の源光法師に柴船を用意させ、杭瀬川を東国に下るよう命じていた。源光法師は源義朝公、鎌田正家、金王丸を柴船に乗せ、美濃国不破郡青墓を脱出し東国に下る途中、美濃国多芸郡飯ノ木村で休息食事のお礼の印に「伊藤」の姓を与え、田跡川を下り揖斐川美濃国石津郡西小島の百姓には休息食事のお礼に「水谷」の姓を与えた。その後、源光法師は敵の検問を逃れるため、源義朝一行を柴船の船底に潜らせ石津郡折戸関所に向かった。伊勢桑名、美濃大垣間を何度も柴の行商人・源光法師は敵の検問に運良く顔馴染みで通り抜け、石津郡沼村で安堵の休息をした。揖斐川を越え、舳先を東にとって木曽川真中あたりの尾張国海西郡立田村の福原で休息食事、ここでは「小粥」「御粥」「飯谷」の姓を与えて木曽川を離れた〈史跡源氏橋あり尾張国海西郡のあたりまで来れば敵はいまいと安堵して、柴船の柴を荷ノ上げし、柴ガ森となり後の海西郡荷ノ上村〈弥富市荷之上町に「史跡柴ヶ森」あり〉となる。更に柴船は陸地を離れ、舳先を東に向けて葦や川を横切り、先に見える浮島に上陸したのは、源氏大将・源義朝公と鎌田正家、渋谷金王丸、舵取り役の源光法師だった。義朝公が休息した浮島を源氏島と名づけたのは、「尾張国海東郡源氏島村」である。〈※これ以降は省略〉』とある。

私見】過去に私は、養老町の「源氏橋」、弥富市の「柴ヶ森八幡神社〉」を偶然訪れている。そして過日、蟹江町の「源氏塚」「源氏島八幡社」を訪れ、附近の「源氏塚公園・源氏公園」や、交差点の名称が「源氏」「源氏島」となっていることも確認した。住所地名は勿論「蟹江町源氏」だ。

 また、筆者の地元・愛知県東海市知多半島の最北部〉にも源義朝が腰かけて休息した岩が、加家(かけ)村〈現・東海市荒尾町〉海岸近くの海辺にあったという伝説がある。現在の海岸は埋め立てられ工場地帯となってしまったので、史跡としては存在していないのが残念だ。東海市の民話では「高座岩(こうざいわ)」として紹介されており、民話の中の村人の話では「桓武天皇が腰を下ろして宝剣を打ったところだと伝えられており、満潮になると海中に姿をかくしてしまう。」とのこと。後日談としてこの民話では、村人はこの岩を義朝を打った長田の名をとって「おさだ岩」と呼ぶようになったとある。

 ※以下は現地確認に至っておりません。

 更に「尾張名所図会〈江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌〉」には、「加家・観音寺」の絵図に『海に浮かぶ高座岩』が描かれている。

 但し、源義朝は「蟹江の源氏島」や「加家の高座岩」にも立ち寄らず、伊勢の海を渡り、直接内海(うつみ)〈知多半島の南部・野間=長田の屋敷より南部〉の海岸に辿り着いたという説もある。内海海岸には「源義朝公内海上陸の地」があり、内陸部には義朝が腰かけて休息したという「義朝公の大岩」が残る。  

 また、関連史蹟として「姥(うば)はり石」が内海御所奥の姥撻谷(うばはりだに)にある。これは『義朝を討とうとする長田が、義朝の侍童・金王丸に磯釣りへ行かし、義朝を1人湯殿に誘い出した。この変事に気付いて金王丸はそれを確かめるべく帰途の谷で1人の老婆に事実を確かめた。やはりその謀反が現実だとわかり、彼は我を忘れて老婆をなぐり殺してしまった。すると不思議に老婆は固い石となり、その石には金王丸の足跡がはっきりついていた。』という伝説にもとずく。

※源氏橋以外は筆者撮影