ホリショウのあれこれ文筆庫

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第621話 愛知岐阜の親鸞聖人の足跡

序文・南無阿弥陀仏

                               堀口尚次

 

 親鸞聖人は、35歳の時に流罪になり越後へ流される。そして40歳で関東へ赴かれ茨城県の稲田に草庵を構え20年間布教に務める。その後京都へ戻られる際に様々な土地に立ち寄り説法を行っている。今回は、愛知県岐阜県に関して、その足跡を見てみる。

 文暦2年、三河国桑子〈現在の愛知県岡崎市〉領主であった安藤薩摩守信平は、聖人一行を城内に迎え入れた。聖人一行は40日に渡り滞在し、栁(やなぎ)堂〈太子堂〉にて17日間説法されたと伝えられている。後の妙源寺栁堂である。

 岡崎に滞在する親鸞聖人が、もう一つの照蓮寺栁堂を発つ時には、名残惜しむ人々が門前の道を塞ぐほどであり、聖人は傍らの石に腰掛け、最後の説法を行った。その「腰掛石」または「説法石」と呼ばれる石は、現在も本堂脇のお堂に納められ、歴代の門跡がお越しの折には参詣されたそうだ。

 続いて安城の願照寺に立ち寄り、「安城の御影」を安置する。

 岡崎安城の地に40日間滞在された親鸞聖人一行。滞在中、聖人は知多半島野間村に葬られた源義朝公のお墓へ参拝された。その際岩屋観音のことを耳にされ、足を伸ばされたという。

 岡崎の地を離れて、京の都へ向かう親鸞聖人一行。現在は埋め立てられているが、愛知県東海市元浜町付近からは、舟に乗って伊勢湾を渡った。対岸の同県海部郡蟹江町まで、束の間の船旅。聖人は漁を生業とする村人に、お念仏のみ教えを説法された。その時に腰掛けられていたのが、腰掛石であると伝わる。

 尾張美濃国は水の国。木曽川揖斐川、そして長良川。三大河川によってもたらされた扇状地と湿地帯。親鸞聖人はこの地を舟を使って移動された。愛知県の蟹江の地から長良川を遡り、北へ約40km。美濃国〈現在の岐阜県長良川支流境川近くに、西方寺に立ち寄った。

 西方寺から南東約2㎞に河田家がある。親鸞聖人は、この木曽川に面した大浦の地にも立ち寄り、み教えを伝えられた。その折に3日間の宿を提供したのが、河田彦左衛門だ。この地がその屋敷跡であると伝わる。「橘之御旧跡」との名称は、当主がみかんの実を献じたところ、聖人は喜んでお召し上がりになったそうだ。ここは在家唯一の聖地とされている。

 親鸞聖人が三河国栁堂にて説法された折、尾張国葉栗郡門間庄の住人河野四郎通勝は、同郷の8人と共にみ教えを聴聞した。深く感銘した9人は聖人に帰依し、帰郷後に尾張国葉栗郡木瀬〈現:羽島郡岐南町〉に草庵を建て、帰洛する聖人を招聘した。これが木瀬の草庵だ。その9人は河野九門徒と呼ばれ、それぞれ木曽川両岸に道場を開き、美濃・尾張両国に濃尾十八門徒と呼ばれる門徒集団を育てた。しかし、文永2年、草庵は木曽川の洪水によって流されてしまった。文明2年、蓮如上人が巡化された折、木曽川の洪水によって流されていた草庵を再興するように指示された。そこで新加納〈現各務原市〉へ移転し、河野御坊と名付けられた。因みに河野御坊は、戦禍に焼かれるなどの経緯の後、慶長9年美濃国羽栗郡竹ヶ鼻村へと移転。現在の真宗大谷派竹鼻別院へと繋がっている。

 美濃国にて東海道〈当時の鎌倉街道〉から中山道に入り、京の都へと歩みを進める親鸞聖人一行。関ヶ原を越え、聖蓮寺に立ち寄られた。聖人一行は、当地にて37日間逗留した。聖人は、食した梅干しの種を「末代女人浄土往生の証しに、一花八果の梅になるべし」と植えられた。現在も花から4~8個の実がなる「八房の梅」として、古の出遇いの奇跡を今も伝え続けている。

 親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多い。内容の一部が史実と合致しない記述がある書物(『日野一流系図』、『親鸞聖人御因縁』など)や、親鸞の曽孫であり、本願寺教団の実質的な創設者でもある覚如が記した書物〈『御伝鈔(ごでんしょう)』など〉によっている。それらの書物は、各地に残る伝承などを整理しつつ成立し、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。

 親鸞の思想は、仏陀自身が説いた初期仏教とは様相の異なるもので、他力思想の徹底という意味では、初期仏教の限界を乗り越えようとする営みの連続であった大乗仏教の中でも、殊に特徴的であり、仏教というよりも、人間の原罪とキリストによる救済という構図を有するキリスト教に近いとの指摘が、かねてからされている。一方で、親鸞の思想を狭い意味での仏教の中だけで理解しようとすることを戒め、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が、仏教を通して顕現したものであるとして、積極的に評価する意見もある。

 謎に包まれた聖人の歴史を辿ることは、すなわち日本仏教の歩みそのものであり、その痕跡が筆者地元の愛知県岐阜県に点在している御縁を鑑み、その足跡を辿った次第である。歴史ロマンへ誘(いざな)ってくれた親鸞聖人に感謝しかない。