ホリショウのあれこれ文筆庫

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第68話 我が祖先・堀口貞満

序文・私の祖先が清和天皇に繋がっていた!

                               堀口尚次

 

 堀口貞満(ほりぐち さだみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。清和源氏の一門で上野国に土着した新田氏の支族。上野国新田郡(新田荘)の東南端にある堀口郷(現在の群馬県太田市堀口町)を支配していた。

 貞満は、新田義貞足利尊氏と共に鎌倉北条政権を倒した武将)の挙兵に参加し、鎌倉を攻略するなど活躍。論功で正六位上大炊助(おおいのすけ)(大炊寮の次官=官名)に叙任される。更にその後、従五位上美濃守(みののかみ)となったが、これらの官位は名ばかりの名誉職である。以後義貞の重臣として活躍。足利尊氏中先代の乱に乗じて建武政権に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)すと、貞満は矢作川での戦いで足利軍と戦ったとされる。

 西国で勢力を盛り返した尊氏が京都を占拠すると、義貞の軍に従い後醍醐天皇らと共に比叡山に逃れた。この時後醍醐天皇へ尊氏から密使が来て、天皇が義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとした為、貞満が出発直前の天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上(そうじょう)し後醍醐天皇皇位恒良親王に譲り、恒良親王と高良親王を委任することで新田軍が官軍であることを保証してから下山した事は『太平記』でも有名な一節となっている。

 その後、義貞に従って、次子の貞祐らとともに越前及び美濃各地で戦い、美濃郡上郡尾根徳山から越前に進軍中に没した。貞祐が家督を継ぎ、北朝方との戦いを継続した。

 現在の群馬県太田市堀口町には、堀口館跡があり、それを示す木柱が早川の堤防脇に立てられている。私は20代後半に、当地を尋ね史跡を確認している。

 美濃国本巣郡岐阜県揖斐川上流)には、堀口一族の子孫が土着した。戦国時代に斎藤氏や明智氏に仕えた坂本氏は、貞満の末子貞安の子孫とされる。

 私の父親曰(いわ)く、実家が、岐阜県大野町にあり、上記の示す土着した子孫だと云う。ちなみに堀口氏の本姓は源氏。家系は河内源氏源頼家の三男である源義国の子、源義重を祖とする新田氏の支流の一族であり、遡(さかのぼ)れば清和天皇【清和源氏の本家】に辿り着くらしい。まさか自分の祖先が恐れ多くも天皇だったとは驚愕だが、ありがたい血統だと思い、精進する次第である。

 「従五位上・堀口美濃守貞満」の、後醍醐天皇を御前にしての奏上は、死を覚悟しての「尚武(しょうぶ)=軍事を重んずる事」の行動であり、私の矜持(きょうじ)としたい。

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