ホリショウのあれこれ文筆庫

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第861話 中先代・北条時行

序文・北条氏の逆襲

                               堀口尚次

 

 北条時行は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府最後の得宗(とくそう)・北条高時の遺児。先代の武家の筆頭である高時と室町幕府創始者当代の武家の棟梁である足利尊氏との中間の存在として、中先代(なかせんだい)とも呼ばれる。

 建武政権期、北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合(きゅうごう)して建武2年に中先代の乱を引き起こし、足利直義を破って鎌倉を奪還するが、わずか20日で尊氏に逐われた。南北朝の内乱では、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦った。延元2年/建武4年から翌年にかけては、鎮守府大将軍・北畠顕家(あきいえ)や新田義興〈義貞の子〉と共に杉本城の戦いで足利家永〈斯波家長〉を討って自身にとって2度目となる鎌倉奪還に成功し、顕家の遠征軍に随行して青野原の戦いで顕家らと共に土岐頼遠を破った。ところが、遠征軍は和泉国で行われた石津の戦いで執事・高師直に大敗、遠征軍の長の顕家は敗死したものの、時行は生き残った。のち正平7年/文和元年、時行は再び義興らと共に武蔵野合戦で戦い、初代鎌倉公方足利基氏を破って3度目の鎌倉奪還を果たした。しかしこの奪還も短期間に終わり、逃走を続けるも、翌年、足利方に捕らえられ、鎌倉龍ノ口〈神奈川県藤沢市滝口〉で処刑された。

 時行が起こした中先代の乱は、通説と新説の双方において、日本史に決定的影響を与えた戦いだった。中先代の乱の直後に、後醍醐天皇足利尊氏の間で対立関係が生じ〈建武の乱〉、ひいては、天皇が政治的実権を握っていた最後の全国的単独政権である建武政権の崩壊に繋がったからである。

 後醍醐天皇は支離滅裂な政策を繰り返して武家や民衆の支持を失った独裁的暗君であり、建武政権の崩壊は必然であったとされる。足利尊氏は後醍醐に反感を抱いており、後は誰かが導火線に点火するのを待つ状況だったという。中先代の乱で尊氏が惣追捕使(そうついぶし)と征夷大将軍を後醍醐に要求したのは、乱を口実として武家の棟梁に足る資格を獲得し、新たな武家政権を樹立する野望を抱いていたからだという。中先代の乱終結後、後醍醐は尊氏に帰京命令を出したのに対し、尊氏はそれに従わずに鎌倉に留まり独自の恩賞配布を行った。なおこの後、後醍醐が新田義貞を指揮官とする兵を差し向けると、尊氏は謝罪のため突然寺院に引きこもったりするなどしている。