ホリショウのあれこれ文筆庫

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第198話 北条氏の台頭と鎌倉13人合議制のはじまり

序文・「いざ鎌倉」は執権北条氏のため

                               堀口尚次

 

 今年のNHK大河ドラマで北条氏がクローズアップされるようだが、少し予習をしておこうと思い、筆を執った。

 平治の乱平安時代末期の源氏と平家の戦い〉で敗れ、同地に流されていた源頼朝(よりとも)の監視役であった北条時政桓武平氏の流れ〉は、自身が在京中の間に娘の政子が頼朝と恋仲になってしまい、周囲の反対を押し切って婚姻する。

 この後、源氏が平家を滅ぼして、頼朝は鎌倉幕府を樹立する。頼朝亡き後は北条政子との間に生まれた頼家〈長男〉と実朝(さねとも)〈次男〉が将軍を継いだが、北条時政〈将軍の祖父となった〉は、将軍の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。

 2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から藤原頼経(よりつね)を第4代将軍に迎え〈摂家(せっけ)将軍・上級の公家をお飾りで向かえる〉、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。3代執権北条泰時御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。

 一方、政子は頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後に落飾〈出家〉して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡(かいらい)将軍として京から招いた幼い藤原頼経後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

 源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家はわずか18歳で左中将に任じられ、朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。頼家は側近らの補佐を受けて政務を行うが、訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。

 これが、頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制である。頼朝の先例を覆す失政を重ねて御家人の信頼を失った頼家から親裁権を奪い、執権政治への第一歩になったと理解されてきた。こんな体制の中、執権の北条氏が台頭し鎌倉幕府を実質牛耳るようになっていった。

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