ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1039話 上杉謙信が見い出した「直江兼続」

序文・上杉鷹山も見習った

                               堀口尚次

 

 直江兼続(かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩〈主君 上杉景勝〉の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。

 永禄7年に上田長尾家当主の政景が死去すると、上杉輝虎〈謙信〉の養子となった政景の子・顕景〈後の上杉景勝〉に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したとも、仙桃院〈謙信の実姉で景勝の母〉の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われる。

 江戸時代後期の講談や明治時代以降の講釈本などを中心に、兼続謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍し、その寵愛深い衆道の相手かつ信頼の篤い近臣であったといわれている。しかし実際には、生前の謙信と兼続の関わりを示す信憑性のある史料は一切確認されておらず、青少年期の兼続が謙信に近侍していたか否かは不明である。

 「」という字を前立てにあしらった兜が兼続の所用として米沢市上杉神社稽照殿(けいしょうでん)に伝わっている。これは、謙信が愛宕神社武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書が歴代古案に集録されており、一般に愛宕からとする説が有力である。

 この前立〈の字瑞雲前立〉の三日月状の台座は銀板で瑞雲を象ったもので、当時は白銀色に輝いていた。白雲に乗って顕現する神仏の表現である。この瑞雲に乗った神仏の肖像や文字をあしらった形式の前立は、伝上杉憲政甲冑〈宮坂考古館所蔵〉、上杉謙信・景勝甲冑〈上杉神社、宮坂考古館所蔵〉などの上杉家当主の兜前立によく見られるもので、兜のつくりも上杉家独自とされる二重錣(しころ)であった。この兜と前立は兼続自身が作製させたものではなく、謙信もしくは景勝が拵えたものを兼続に下賜したものと考察されている。

 米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難のため、老臣の中には家臣の減員を提案した者もいたが、兼続は断じてこれに反対し、「かくの如き際は人程大切なるものはいない、一同協力して復興を計るべきである」として新季奉公の牢人連の去る者は追わなかったが、旧来の家臣は一人も去る事を許さなかった。

 兼続の死後、主君を誤らせ徳川家康に刃向かう、上杉家を窮地に陥れた奸臣とされていたが、米沢藩第9代藩主の上杉鷹山兼続を手本に藩政改革を行なったことから次第に再評価が高まった。