ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1052話 黒部川第四発電所「黒四ダム」

序文・171人の殉職者

                               堀口尚次

 

 黒部ダムは、富山県東部の中新川郡立山町を流れる黒部川水系黒部川に建設された水力発電専用のダムである。昭和31年着工、太田垣士郎指揮の下、171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて、1961年1月に送電を開始 し、昭和38年6月5日に完成した。貯水量2億トン。

 北アルプス立山連峰後立山連峰に挟まれた黒部渓谷にある黒部ダムは、黒部川下流域の海に面する黒部市から直線距離で約40キロメートル南東に位置し、長野県大町市から直線距離で約20キロメートル西に位置する〈県境から約3キロメートル西に位置する〉。標高は1,454m。

 黒部ダムの水は平均水温4度。ダム右岸の取水口から、山中に掘られた導水路〈専用トンネル〉を通って、約10キロメートル下流の地下に建設された黒部川第四発電所黒四に送られて、ダムとの545.5メートルの落差で発電する。この発電所の名称から黒四(くろよん)ダムとも呼ばれる。

 富山県北陸電力送配電の送配電地域であるが、黒部ダム関西電力が建設し、発電された電気は関西電力送配電の送配電地域に送電されている。

 黒部ダム建設の経緯は第二次世界大戦後の復興期に遡る。当時の関西地方は深刻な電力不足により、復興の遅れと慢性的な計画停電が続き、停電による多数の死亡事故などが深刻な社会問題となっていた。決定的な打開策として、関西電力は、大正時代から過酷な自然に阻まれ何度も失敗を繰り返した黒部峡谷での水力発電以外に選択肢を見出せず、当時、人が足を踏み入れること自体が困難で命がけだったその秘境の地でのダム建設案に、太田垣社長〈当時〉は「黒部しかない」「関西の消費電力を一気に賄える」「工期7年、遅れれば関西の電力は破綻する」と決断し、資本金の3倍〈最終的に5倍〉の総工費で臨んだ。完成当時、電力需要における京都府の80%と大阪府の20%〈合計25万kW〉を賄ったことでも知られ、東京に追いつくべく産業も重工業への転換がようやく可能になった。

 日本を代表するダムの一つであり、富山県東部の長野県境近くの黒部川上流に関西電力が建設したコンバインダム。水力発電専用ダムで貯水量2億立方メートル〈東京ドーム160杯分〉、高さ〈堤高〉186メートル、幅〈堤頂長〉492メートルである。日本でもっとも堤高の高いダムで、富山県で最も高い構築物でもある。黒部ダム完成により、総貯水量2億トンの北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成された。

 総工費は建設当時の費用で513億円。これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人、工事期間中の転落やトラックロッコなど労働災害による殉職者は171人にも及んだ〈ちなみに黒部第三ダム建設時には、建設現場以外で宿舎が2度の泡雪崩の被害を受け108名、ダイナマイト自然発火事故で8名が死亡した〉。

 昭和31年着工当時、「電力開発は1万kW生むごとに死者が1人出る」と言われていた。完成時、25万kWを生み出した黒部ダムの建設工事で171人の殉職者を出したことは、人が行くこと自体が当時命がけだった秘境の黒部渓谷でのダム建設の困難さを示している。また当時、黒部峡谷のダム建設現場では「黒部にケガはない」と言われていた。しかしその言葉の意味は、工事での労働災害が無いという意味ではなく、「落ちたらケガでは済まない」という意味であり、工事のミスは即死を意味した。

 「黒四ダム」の別称もあるが、関西電力は公式サイトなどでも「黒部ダム」としている。また、日本ダム協会によれば、「黒四ダム」の名は仮称として用いられ、後に正式名称が「黒部ダム」となった。完成時には「黒四ダム」と呼ばれることが多かったが、最近では一般に「黒部ダム」と呼ばれるようになっている。また、かつては図鑑などで「黒部第四ダム」と書かれていたこともある。