ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1053話 生瀬騒動

序文・住民皆殺し

                               堀口尚次

 

 生瀬騒動は、江戸時代初期の慶長14年秋に、水戸藩領の常陸国久慈郡小生瀬村〈現:茨城県大子町小生瀬〉で発生したとされる事件。年貢納入を巡る農民と藩役人の行き違いの結果、水戸藩が小生瀬村の住民を皆殺しにしたという伝承である。生瀬一揆、生瀬乱ともいう。発生年については上記のほかに、慶長7年、元和3年、元和7年など諸説がある。

 慶長7年5月、常陸を支配していた佐竹義宣徳川家康から出羽国秋田への国替えの命令〈54万石から20万石への減転封〉を受けた。同年、徳川家康の五男の武田信吉が、下総国佐倉10万石から、常陸国水戸15万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興したが、信吉は慶長8年9月11日に21歳で死去した。代わりに同年11月、家康の十男・長福丸〈のちの紀州徳川家の祖・頼宣〉が2歳にして水戸20万石に封ぜられた。ただし頼宣は水戸には入らず、父家康の許で育てられた。慶長9年には、新たに武茂(むも)〈栃木県那珂川町〉、保内(ほない)〈茨城県大子町〉5万石が加えられ25万石になった。このような事情から慶長14年当時、水戸藩領の実際の支配は関東郡代伊奈備前守、彦坂小刑部が行い、沢伊賀守が財政を担当していたため、頼宣領25万石は事実上江戸幕府直轄領であった。

 生瀬騒動と称される事件については、当地に以下のような伝承が伝えられてきた。

『昔、ある年の10月10日に小生瀬の人間が水戸から押し寄せた侍の集団に皆殺しにされる事件が起きた。秋になり年貢取立の役人が来たので年貢を納めたところ、間もなくまた別の役人が来て年貢を要求してきたため、村民達は怪しんで、後から来た役人を偽者と判断してこれを殺害した。ところが前者が偽者で後者は本物であったため、村は水戸藩の怒りを買い、芦沢伊賀守を総大将とする侍の一団に襲撃される結果を招いた。この時村人達が集まって命乞いをした付近の沢が嘆願沢で、これが聞き入られないで殺されたのが地獄沢、斬られた首を埋めたのが首塚、胴を葬ったのが胴塚である。村人達は皆殺しにされたが、村の庄屋を務めていた谷沢坪の某Aの家だけは助かった。その後、某Aに代わって潰滅に帰した小生瀬村の再興を命ぜられたのが、当時大子村の庄屋をしていた某Bであり、彼は柏原坪に落ち着き新たな庄屋となった。』