ホリショウのあれこれ文筆庫

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第894話 督姫と毒饅頭事件

序文・家康の次女

                               堀口尚次

 

 督姫(とくひめ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康の側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)〈鵜殿氏の娘〉。実名はふう。別名は富子、播磨御前、良正院。

 最初の政略結婚として、家康の命により督姫北条氏直正室として嫁いだ。その後文禄3年、豊臣秀吉の肝煎りで池田輝政に再嫁した。慶長14年4月2日に、息子の池田忠継(ただつぐ)、忠雄、輝澄を連れて駿府の家康に会いに行っっている。

 16歳で亡くなった督姫の長男・忠継の死には以下のような伝説がある。

『忠継の母・督姫が実子の忠継を姫路城主にすべく、継子(ままこ)〈実子でない子〉で姫路城主であった池田利隆(としたか)〈忠継の異母兄〉の暗殺を企て、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。女中が掌に「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。こうして身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる。』

 史実として忠継は、慶長20年2月23日に岡山城内で疱瘡で死去し、督姫は同年2月4日に二条城で死去しているため、死亡した場所や順番、死亡原因全てにおいて異同がある。池田家は利隆系と忠継系に分かれ、それぞれの子孫が岡山藩鳥取藩の藩主となっていくが、両方の藩の史料で毒殺は否定されている。加えて利隆の嫡男・光政は忠継の跡を継いだ忠雄が死去した際に、親密な関係を窺(うかが)わせる追悼歌を残しており、上記のような経緯があったとは考えにくい。また、昭和53年に忠継廟の移転の際に発掘調査が行われ、その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われた。その結果でも毒物は検出されることはなかった。

 督姫菩提寺である鳥取の慶安寺の寺伝に池田輝政に嫁ぐ際の経緯が記されており、それによると元々秀吉は池田輝政崇源院〈秀吉の側室・淀殿実妹〉を嫁がせようと家康に相談したが、家康が「浅井の娘〈崇源院〉を秀忠と縁組させたいので、〈その代わりに〉輝政には私の娘〈督姫〉を嫁がせる」と頼んだため、秀吉が受け入れたという。