ホリショウのあれこれ文筆庫

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第804話 秀吉に翻弄された妹・朝日姫

序文・戦国大名の身内女性の宿命

                               堀口尚次

 

 朝日 / 旭姫は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。豊臣秀吉の異父妹とされるが、同父妹とする指摘もある。徳川家康〈継室〉。名は旭といわれる。家康との結婚後は駿河御前と呼ばれ、死後は法名南明院でも呼ばれる。

 天文12年に誕生。父・竹阿弥、母・なか〈大政所(おおまんどころ)〉の娘として尾張国の農民に嫁いだ。織田信長に仕えた秀吉の出世とともに、この夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を名乗った。ただし、最初の夫は佐治日向守ではなく別の織田家臣・副田甚兵衛吉成であったという話もある。天正14年以前のことについては相互に矛盾するさまざまな伝承が存在してはっきりしない。

 一方、徳川家康天正7年に正室築山殿を失って以来、多数の側室はいたが、正室娶(めと)っていなかった小牧・長久手の戦い天正12年〉の和睦の後、秀吉は家康の第二子の於義丸〈結城秀康〉を自分の養子としていたが、秀吉は家康を主従関係をとらせたいと考え、家康を妹婿とすることで形式的な従属を強めようと考えた

 天正14年、秀吉は政略結婚のために妹を強制的に夫と離縁させ、夫には500石を捨扶持(すてぶち)として与えた。この時に夫・日向守は面目を失って自殺したとも、剃髪して隠居したとも云うが、これも定かではない。また、近年では本能寺の変の頃には既に離縁していており、政略結婚のために強制的に離縁された訳ではないとする説も出されている。

 秀吉は、同年2月22日、織田信雄の家臣で、陪臣にあたる滝川雄利〈羽柴下総守〉・土方雄久を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、徳川家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。家康はこれを了承し榊原康政が代理として上洛して結納を取り交わした

 朝日姫は4月に大阪城を出て聚楽第に入り、5月に浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀大夫等を従えて150名余の花嫁行列は京を出発し、途中、信雄の家臣・織田長益と滝川雄利がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室継室として徳川家に嫁いだ。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。朝日姫は駿河府中〈駿府〉に居を構えたため駿河御前と以後呼ばれた。

 家康は婚儀が済んでも上洛しなかったので、大政所が岡崎の駿河御前を訪ねるという形でさらに人質となり、家康は上洛して秀吉との和議が成立した。

 その後、天正16年に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛したが、しばらくして快方に向かったので、9月9日、駿河に帰国した。次の上洛時期は不明であるが、聚楽第に住んでいる。天正17年11月には病気に罹(かか)っており、天正18年の正月14日に死去した。享年47。