序文・築山殿の運命
堀口尚次
徳姫は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。織田信長の長女。名前は「おごとく」。松平信康の正室。嫁入りで岡崎殿と敬称された。長女・登久姫〈福子〉は小笠原秀政室、次女・熊姫〈国子〉は本多忠正室。
永禄2年、尾張国の戦国大名・織田信長の長女として誕生。生母は生駒吉乃〈久菴桂昌〉といわれているが、『織田家雑録』には織田信忠〈信長の長男〉の姉となっているなど、生母が生駒氏であることへの矛盾を示唆する史料もある。永禄6年、信長は家康に徳姫を嫁入りさせる約束をする。
永禄10年、三河国の徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぐ。天正4年に登久姫、天正5年に熊姫を生んだ。しかし、いつまでも嫡子が生まれぬのを心配した姑の築山殿〈家康の正室〉が、信康に元武田氏家臣の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれている。
また、信康とも不仲になったともいわれており、これを示す史料として、松平家忠の『家忠日記』の中に、家康が信康・徳姫の不仲を仲裁するために岡崎へやって来た、と記されている〈ただし、原著のこの部分は信康の喧嘩相手の名詞が破損しており、松平康忠〈家康の従弟〉と信康が仲違いしたとの説を提唱している作家もいる〉。その頃、信長も岡崎に来たことも記されており、信長も娘夫婦の仲を心配してやって来た可能性も推測できる。一時的にせよ夫婦仲がこじれたことがあったことは事実であるといえよう。
天正7年に徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪状〈武田との密通など〉を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされる。これにより築山殿は8月29日に小藪村で殺害され、信康は9月15日に二俣城で切腹した。しかし、この「信長の十二ヶ条」は、後に加筆・修正された可能性があるともいわれており、他にも信康切腹事件に関しては不可解な点が多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説も出されている。
築山殿が二俣城への護送中に佐鳴湖の畔(ほとり)で、徳川家家臣により殺害された場所には、ひっそりと「小藪船着場跡」の史跡が残る。