ホリショウのあれこれ文筆庫

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第571話 徳川家康の継父・久松俊勝

序文・於大の方が再嫁したところ

                               堀口尚次

 

 久松俊勝は、戦国時代の武将。尾張国知多郡の坂部城主〈阿久比城:愛知県阿久比町卯坂〉。初名は定俊及び長家徳川家康の生母・伝通院〈於大の方の再婚相手として知られる佐渡守を称した。『東照宮御実紀』巻二には、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝とある。

 尾張国守護斯波(しば)氏に仕える国人(こくじん)領主〈在地の領主〉であった久松氏は、戦国時代には大野城〈愛知県常滑市北部〉を本拠とする佐治氏と争っていた。しかし俊勝は天文15年佐治氏の一族より長子・信俊の妻を迎えることで和睦した。これは松平広忠〈家康の父〉の仲介によるものとする記述がある。また古文書などから従来織田方として見られていたが、広忠と同心していたことも明らかになっており、織田方との提携とともに松平氏とも提携していたと思われる。

 俊勝は、桶狭間の戦い後に松平元康〈広忠と伝通院の子、後の徳川家康〉に与す、永禄5年今川氏の重臣・鵜殿長輝が守る三河国宝飯郡(ほいぐん)西郡(にしのこおり)の上之郷(かみのごう)城〈愛知県蒲郡市神ノ郷町〉を攻略した。西郡の領主となった俊勝は、信俊〈長男〉に阿久比を譲り、上ノ郷城には於大との間に生まれた次子・康元を置いた。この時期の発給文書には「長家」の名が見え、また佐渡守を名乗っていたことがわかる。

 「俊勝」への改名はこれ以降と考えられるが、詳細は不明である。また、松平元康は永禄六年に「家康」と改名するが、家康の"家"の字は継父である久松長家より一字を得たものであったが、後年大名に成長した家康を憚(はばか)って長家の方が「俊勝」と改名。さらに、家光以後に徳川将軍家にとり「家」の通字〈諱(いみな)〉が重要となり由来を隠したため、その由来が分からなくなってしまったとする説もある。

 後に織田信長から竹田勝頼への内通の疑いをかけられた水野信元〈家康には伯父、俊勝には義兄にあたる〉が家康を頼ってくる。しかし、家康は信長の命により同盟を重視して信元と養子の元茂を岡崎城に呼び出し切腹により自害させる。後に事情を知って激怒した俊勝はそのまま上之郷城に隠退してしまった。晩年には三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。

 俊勝の子女は、庶長子(しょちょうし)〈正室の子でない長男〉の信俊をはじめ、また伝通院於大の方徳川家康の母〉との間の子として松平姓を名乗った松平康元松平康俊、多劫姫、松平定勝、松姫、天桂院、その他二女である。俊勝隠遁の原因となった水野信元暗殺は、佐久間信盛の讒言(ざんげん)を受けたものであるとされているが、庶長子の信俊も信盛の讒言を受け自害に追い込まれ、居城の坂部城は信盛の軍勢によって攻め落とされ、信俊の子供達も殺害されている

 俊勝の墓所は、坂部城址近くの阿久比町大字卯坂字英比67番地の洞雲(とううん)院にある。以下に一部重複するが、信俊が自害に追い込まれた経緯と、信俊の子女について記す。

 信俊の父・俊勝は、松平元康〈後の家康〉の招きを受けてその家臣となり、於大ら妻子を連れて三河国に入った。織田信長と元康が清須同盟を結ぶと、阿久比の地は織田氏支配下となり、家康と血縁のない信俊が坂部城〈阿久比城〉と尾張国内の久松氏の所領をもって信長に仕えることになった。

 石山合戦の際には佐久間信盛の指揮下で石山本願寺を攻めていたが、信盛の讒言によって突如信長から謀反の疑いをかけられ、憤慨して大阪四天王寺において自害を遂げてしまう。信俊の死の直後、信盛の軍勢は坂部城を攻め落とし、信俊の子供達のうち2人を殺害した。しかし胎児であった末子・信平は生母と共に保護され、外祖父佐治対馬守の許で出生したという。またその子・信綱は松平定勝に仕え、子孫は伊予国松山藩家臣となった。

 追記:坂部城は、徳川家康の生母・於大の方が、城主・久松俊勝と再婚し、15年間暮らした城。その間、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類を送り続け、後に家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたと言われている。また、桶狭間の戦いを控えた永禄3年年5月17日、於大の方と家康当時、松平元康はこの地で母子16年ぶりの感激の再会を果たしたと伝えられてい

 私は過日、坂部城址と洞雲院を訪れ、松平家・徳川家・織田家に翻弄された久松家の菩提を弔うと共に、戦国時代の陰に隠れ、悲惨な運命を辿った武将の子女を偲んだ。