ホリショウのあれこれ文筆庫

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第851話 家康の直轄地だった知多郡〈知多半島〉

序文・家康ゆかりの知多半島

                               堀口尚次

 

 尾張藩の歴史によると、『関ケ原の戦いの戦功〈先陣〉により徳川家康の四男・松平忠吉が入封〈清州藩、52万石〉する。慶長11年、家康の直轄領であった知多郡知多半島も忠吉に加増される。しかし慶長12年に忠吉に嗣子がなく死去して天領〈幕府直轄地〉となった。代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って〈清州越し〉、ここに尾張藩が成立した。』とある。

 このことから分かる様に、地理的〈支配地区分〉上は尾張藩の中にありながら、知多郡知多半島〉は、徳川家康の直轄地だったのだ。

 知多半島郷土史往来・西まさる著によると『具体的な史実として知多郡では尾張藩札(はんさつ)〈各藩が独自に領内に発行した紙幣〉が使えない「藩札不融通の地」だった。また、年貢は米ではなく「正金で納税」する制度だった。』とある。

 また『知多半島南部の有力領主・千賀氏を、知多半島南部の一部を、実質的に家康の代理として管理する〈代官として〉旨を通達している。』ともある。

 更に『このような幕府の直臣〈代官〉でありながら、尾張藩の家臣となることは、いわゆる「二重封臣(ほうしん)」であるが、知多半島南部の利権〈海運や水軍の関係〉から家康自らがしっかり握っておきたかっただろう。このことは、木曾谷の木材資源などの確保から、木曽奉行の山村氏にも同様の処置がとられている。』ともある。

 知多半島北部〈現知多郡東浦町〉は水野氏が治め、緒川城は家康の母・於大の方生誕の地である。また於大の方が再嫁した久松家・坂部城〈現知多郡阿久比町〉も知多半島中腹にある。家康は桶狭間の戦いで大高城から岡崎城に帰還する途中に、この坂部城へ立ち寄り、生母の於大の方と対面してるという記録も残る。

 本能寺の変の後、伊賀越えの家康は伊勢湾を渡り三河へ上陸し岡崎に帰還したというのが定説だが、別の伝説によれば、知多半島常滑に上陸し、半島を横断した事を裏付け物的証拠なども数多く残っている。

 このように、知多半島徳川家康とは切っても切れない関係があったのだ。