ホリショウのあれこれ文筆庫

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第850話 知多半島の残る「玉姫伝説」の謎

序文・淀殿大阪城から脱出していた?!

                               堀口尚次

 

 愛知県知多郡南知多町師崎(もろざき)の延命寺は、京都の市街〈洛中〉と郊外〈洛外〉の景観や風俗を描いた『洛中洛外図屏風』〈延命寺本〉を所有する。これは知多半島水軍の将・稲生重政の戦利品。大坂の陣で奪取した豊臣方の御座船(ござぶね)〈天皇・公家・大名など貴人が乗る豪華な船〉に匿(かくま)われていた姫御前〈その女性の高貴さからこう呼んだ〉とともに領主千賀家に上納され、延命寺〈千賀一族の菩提寺〉に預けられたと伝えられている。落款(らっかん)がなく、作者が特定されていない。詳細な制作時期も歴史研究者の考察対象となっている。

 豊臣方の御座船・大坂丸に匿われていた姫御前師崎に連れて帰り、その美しさから「玉姫」とも呼ばれた。稲生重政は玉姫延命寺で世話をすることにしたが、隙をつかれ玉姫は隠し持っていた懐刀で喉を突き自害して果てる。稲生重政は立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建て「姫塚」と銘打ち、懐刀とともに玉姫を埋葬した。現在も延命寺の境内に五輪塔の「姫塚」は建っている。

 この玉姫を、豊臣秀吉の側室で、秀頼の母の「淀殿〈茶々〉・織田信長の妹〈お市の方浅井長政の娘〉」ではないかという説がある大坂夏の陣大坂城は落城し、秀頼と共に自害したとされるが、淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、遺体も確認されなかったため、秀頼と同様に彼女にも逃亡・生存説などの伝説が生まれるようになった。

 稲生重政は、知多半島北部に勢力をもった水野信元〈家康の母・於大の方の兄〉の勢力下であり千賀家最上位の家臣で知多半島南部〈亀崎城主〉を任されていた。師崎の領主・千賀家は、尾張国知多郡に勢力を持った氏族であり大野城〈現常滑市〉を拠点とした佐治氏〈佐治水軍〉に仕えていた。佐治一成織田信長の娘・江(ごう)〈茶々の妹〉と婚姻している。

 このように、知多半島〈特に南部〉と織田家との繋がりは濃い。また織田家と徳川家の繋がりも濃いことから、徳川家〈旧織田家家臣〉らが、淀殿を豊臣家から奪還しようとした事も考えられるのだ。しかし、それではなぜ姫御前は自刃しなければならなかったのか。この謎は永遠に、歴史ロマンとして残る。

私見】秀頼や淀殿が生き延びたという伝説は、これ以外にもある。それにしても筆者が住む知多半島には、日本武尊源義朝徳川家康桶狭間の戦いの今川方落武者など、伝説の宝庫だ。今後も郷土の歴史を探求していきたい。