ホリショウのあれこれ文筆庫

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第849話 征韓論

序文・朝鮮侵略

                               堀口尚次

 

 征韓論は、日本の幕末から明治初期において唱えられた朝鮮侵略論をいい、一般的には、明治6年の対朝鮮論をさすことが多い

 日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動政治的主張にも取り入れられた。幕末には対外進出の一環として朝鮮進出が唱えられた。勝海舟は、「まず最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後、支那に及ばんとす」とアジア連合論を主張した。また日朝通交を担当していた対馬藩においても、初めは朝鮮に対して信義をもって説得し、朝鮮が応じないようであれば武力行使するといった朝鮮進出論が唱えられた。

 慶応2年末には、清国広州の新聞に、香港在住の日本人が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった。また朝鮮では国王高宗の実父である大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、丙寅洋擾(へいいんようじょう)〈フランスとの戦い〉やシャーマン号事件〈反米闘争〉の勝利によって、意気おおいにあがっていた。

 そのように日朝双方が強気になっている中で明治維新が起こった。日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。明治元年12月には木戸孝允が「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残している。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうとしている。

 明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。9月には、外務権少丞(ごんしょうじょう)・吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、旧対馬藩主の宗義達を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞・花房義質を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した