ホリショウのあれこれ文筆庫

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第252話 朝鮮にあった日本人村

序文・朝鮮と日本の繋がりは古くから

                               堀口尚次

 

 倭館(わかん)は、中世から近世にかけて、李氏朝鮮朝鮮王朝時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のことである。江戸時代には対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。

 李氏朝鮮は、朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇(わこう)〈海賊〉に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は国防上の見地から興利倭船の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道昌原市)に限定した。日本の使送船〈公式の使者〉の入港地もこれら二港に限定された。

 これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。

 朝鮮半島に居住し帰化しない日本人を朝鮮では恒居倭人(こうきょわじん)と呼び、首領を頭とする自治が行われた。恒居倭人の中には倭館の関限を超えて居住する、漁業や農業に従事する、密貿易を行う、倭寇化する者もいた。当初朝鮮政府は日本人には徴税権・検断権も行使出来なかった為、彼等を統制下に置こうと圧力をかける。交易上のトラブルもあり朝鮮側に不満を募らせた日本人は、対馬からの援軍も加えて大規模な反乱を起こす。この三浦の乱は結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。

 釜山の日本人居留区、10万坪もの面積があった。同時代の長崎出島は約4000であったから、その25倍に相当する。倭館とも呼ばれた。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁〈交易場〉、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人〈対馬人〉の住居があった。

 倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官〈貿易担当官〉、書記官、通詞〈通訳官〉などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。

 倭館は、明治維新後の日朝修好条約まで200年続き幕を閉じた。

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