序文・水面下での民間人の活躍
堀口尚次
高田屋嘉兵衛(かへえ)は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。
ニコライによる文化露寇(わこう)〈ロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件〉の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していた。文化8年、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたゴローニンは国後島に入港した際、厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に捕えられ、松前で幽囚の身となった。ディアナ号副艦長リコルドは一旦オホーツクに戻り、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた良左衛門や文化7年にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島に向かった。
国後島に着いたリコルドは漂流民を陸へ送り、日本側からゴローニンの消息を知ろうとした。松前奉行調役は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えたが、リコルドはそれを信じず、文書で証明するようにと良左衛門を陸へ送り返したが、 良左衛門は戻らなかった。リコルドは国後島沖に留まり、日本船を拿捕(だほ)して更なる情報を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船であるが、ディアナ号に拿捕された。幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがニコライの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。嘉兵衛は文化の違いを良く理解し、松前奉行所とリコルドの交渉を実現させ、嘉兵衛の尽力により事件は解決した。嘉兵衛は外国帰りのため、しばらく罪人扱いされた。松前から箱館に戻り称名寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されなかったが、体調不良のため自宅療養を願い出て、自宅で謹慎した。そして翌年、松前奉行所に呼び出され、出国したのはロシア船に拿捕されたためであり、帰国したことから無罪となった。そしてゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金5両を下賜された。
リコルドは「日本人には偉大な国民的美徳が備わっている」と記している。