序文・ロシアとの因縁は・・・
堀口尚次
津軽藩士殉難事件は、江戸時代後期の文化露寇(ろこう)のさなか北海道知床半島西岸の斜里郡〈現北海道斜里町〉で発生した大量遭難事件。
18世紀以来、日本との通商を求めるロシアはしきりと接触を図ってきた。1792年にはアダム・ラクスマンが伊勢国出身の日本人漂流民・大黒屋光太夫を伴って根室に来航し、1804年にはニコライ・レザノフが長崎に来航し、ともにロシア皇帝の親書を携え交渉を図っている。しかし、いずれも鎖国を祖法とする日本側に拒絶されていた。日本側の煮え切らない態度に接したレザノフは「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」との意見を皇帝に奏上するが、後に撤回している。一方、彼の部下ニコライ・フヴォストフは独断で水兵を率い、1806年と1807年の数回にわたって択捉島や利尻島に上陸し、日本側の会所や番屋を焼き払い、食料や武器などを略奪する暴挙を繰り返した。これを「文化露寇」と呼ぶ。
事件を受けた幕府では北方警備の重要性を悟り、松前藩を陸奥国伊達郡梁川に転封して蝦夷地を直轄領にするとともに、会津藩、秋田藩、南部藩など東北地方の各藩に北海道の沿岸警備を命じる。
文化4年に、江戸幕府は北方警備のため津軽藩士や農民ら約300人を宗谷に派遣し、そのうち斜里へ移動した100人中72人が極寒と栄養不足による浮腫(ふしゅ)病〈病顔や手足などの末端が体内の水分により痛みを伴わない形で腫れる〉により死亡し、宗谷でも30人以上が犠牲になったとされる。
北海道で生きる術を熟知したアイヌにとっても、斜里の地は厳しい寒気ゆえに越冬が憚られる地域だった。地域のアイヌは夏のみ斜里の沿岸で暮らし、冬季は風が穏やかな内陸部で越冬していた。現地の状況に不慣れな上、日本伝統の習慣に固執した生活が大量死を招いたといえる。
斜里での大量死は藩の「恥部」として厳重な緘口令が布かれ、藩の公式記録にも載せられなかった。しかし生存者の1人である藩士・齊藤勝利の残した「松前詰合日記」が1954年に発見され、はじめて藩士たちの悲劇が明らかになった。1973年には津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、慰霊祭が毎年行われている。
津軽藩士殉難者は、現状のロシアによる北方領土実行支配をどう思っている。