ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第874話 船頭・小栗重吉

序文・海外見聞録

                               堀口尚次

 

 小栗重吉天明5年 - 嘉永6年〉は、江戸時代後期の船頭である。史上最も長期にわたって漂流した人物として知られている三河国佐久島〈現・愛知県西尾市〉の百姓・善三郎の次男として誕生。後に尾張国半田村〈現愛知県半田市〉の百姓・庄兵衛の養子となる。

 文化10年、重吉は尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船・督乗丸〈約120トン〉の船頭として、部下の乗組員13名と共に師崎(もろざき)〈知多半島の最南端〉から江戸へ出航した。しかし江戸から帰還する途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれ遭難。この時乗組員の1人が海に転落している。舵を破損した督乗丸は、海流に乗って太平洋を漂流。以後文化12年に、アメリカ・カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上でイギリスの商船フォレスター号に救助されるまで、484日間にわたって漂流した。生存者は、重吉以下音吉、半兵衛の3名であった。

 命を取りとめた重吉らは、シトカからペトロパブロフスク・カムチャツキーに送られ、ロシア船パヴェル号で択捉島へ護送された。この間の文化13年6月に、半兵衛が病死。最後に残った2人は国後島からノッケ岬、根室を経て、同年9月に松前に到着。江戸で事情聴取を受けた後、文化14年4月に身柄を尾張藩に移され、5月に帰郷を果たした。

 生還した重吉は、新城藩〈現愛知県新城市〉の家老で国学者の池田寛親の聞き取りによる口述筆記にて『船長(ふなおさ)日記』を書き上げた。同書には、積み荷の大豆をきな粉にしたり、魚を釣ったりして飢えをしのいだこと、同乗の乗組員が壊血病や栄養失調で次々と命を落とす様子、救助後のアメリカにおける生活などが記録されている。鎖国下の日本における数少ない海外見聞録であると共に、長期にわたって極限状態に置かれた人間の心理が描かれた、文学的価値の高い資料でもある。重吉は尾張藩から5石2人扶持、名字帯刀を許されると共に、御水主(おかこ)〈お抱え船乗り〉の職を得るが、2ヶ月で辞職。死亡した乗組員の供養に余生を捧げた。文政7年頃、著作を売り歩いたりして得た資金を投じ、台座が廻船の形をした慰霊碑を笠寺に建立。嘉永6年に重吉が死去してからは放置されていたが、同年成福寺〈名古屋市熱田区〉へと移設された。帆柱の部分には「南無阿弥陀仏」の文字が、また台座には死亡した乗組員の名が刻まれている。