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第407話 御附家老の本音と建前

序文・社外取締役

                               堀口尚次

 

 御附家老(おつけかろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝(れんし)〈親戚〉を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。

 将軍の一族から大名に取り立てられた人物には、小姓などの側近を除いて固有の家臣はいないので、藩政を担う家老はみな将軍家から付けられた者となるが、ここでいう附家老は、政務や軍事の補佐を行うとともに藩主の養育の任も受け、江戸幕府の意向に沿うことも期待されていた。したがって身分としては、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強い。時代が下るにしたがって、藩ごと、附家老家ごとに考え方に差ができ、藩主に忠実に仕えて将軍家と対抗しようとしたり、逆に陪臣身分からの脱却を画策して藩主と対抗したり、財政支援と引き換えに将軍家・御三家出身の後継藩主を迎えて幕府の影響を強めるなど、政策と主導権を巡って藩内で派閥抗争を繰り広げる人物もいた。特に尾張徳川家の成瀬家・竹腰家、紀伊徳川家の安藤家・水野家、水戸徳川家の中山家の計5家が御三家の政策を強く左右することとなった。

 初代の附家老はそれぞれ、将軍より親藩藩主の育成や統治、幕府との調整などを命じられており、使命感を持って附家老を勤めた。しかし、江戸幕府が整備されていく上で、附家老5家体制が整った後、5家は大名格の所領を持ちながら陪臣として家格が低かったため、連帯して幕府に譜代大名並みの待遇を求めた運動を行った。元々、直参幕臣親藩陪臣という立場の差から抵抗を感じる者もいた。

 要するに付家老とは、建前は藩主の家来であり、藩における家老筆頭であるから、藩のナンバー2であるのだが、本音は将軍直属の親藩藩主の見張り役であったのだ。特に徳川御三家は、将軍家と血筋も近く〈当然ながら尾張藩を除いて将軍も排出している〉幕府将軍家にとって欠かせない藩であるのだが、あくまでの将軍の直臣であり、主導権は将軍家にあることを強調し、警戒ているのだ。譜代大名外様大名より、親藩大名の同行を一番に把握したかったのだ。