ホリショウのあれこれ文筆庫

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第268話 最後の老中・板倉勝静

序文・幕末の老中の立場は微妙

                               堀口尚次

 

 板倉勝静(かつきよ)は、幕末の大名。備中松山藩7代藩主。板倉宗家13代当主。江戸幕府奏者番寺社奉行・老中首座〈筆頭〉を歴任した。

 藩政改革が評価されて幕府から奏者番寺社奉行に任じられたが、安政の大獄井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して寛大な処置を行ったため、直弼の怒りを買って罷免された。直弼死後、再び奏者番寺社奉行として幕政に復帰し、翌年には老中に昇格した。14代将軍徳川家茂の上洛に随行し、家茂没後も、15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任された。そして幕政改革に取り組む一方で、前土佐藩主の山内豊信が建言した大政奉還の実現にも尽力した。鳥羽・伏見の戦い敗戦後は慶喜と共に大坂におり、会津藩松平容保桑名藩松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。

 新政府は岡山藩錦の御旗を渡して備中松山藩討伐を命じていたため、勝静不在の松山は苦境に陥った。留守を守っていた家老らは長州が攻めてきた場合には戦うつもりだったが、朝敵とされてしまったこともあり、松山の領民を戦火から救い、板倉家を存続させるためには、松山城を明け渡すしかないという考えで藩論が一致した。勝静と嫡男の勝全は江戸から戻れなかったので、勝静は強制的に隠居させたことにして、先代勝職の従弟にあたる勝弼を養子として新たな当主に迎え、投降して官軍方に鞍替えした。

 松山藩岡山藩の管理下に置かれた。そこに鳥羽・伏見から熊田率いる松山藩隊150名が備中玉島に帰還した。岡山藩は熊田の首級を要求し、それを知った熊田は自刃して果てた。これによって、松山は最終的に戦火を免れた。

 一方で江戸の勝静は、慶喜が朝敵とされたことから、老中職を辞し、その後逼塞(ひっそく)処分を受け、下野日光山に屏居(へいきょ)となった。さらに新政府によって宇都宮藩に移され、英厳寺に軟禁されたが、宇都宮戦争で大鳥啓介率いる旧幕府軍によって解放され、同じく老中経験者の小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となった。勝静が同盟軍と行動を共にしていると知った明治政府は態度を硬化させ、松山藩は震え上がった。江戸開城で戻った嫡男の勝全を宇都宮の官軍に引き渡すが、勝静自身はなおも抵抗を続けた。勝静は、定敬や長行と共に旧幕府軍の一員として五稜郭まで転戦し、同行した松山藩士も新選組に加わって土方歳三の指揮下で戦った。

 これを好ましく思わなかった家老らは、松山藩士を知人のプロイセン商船に乗せて箱館に派遣し、勝静は半ば強引に東京に連れ戻された。家老らは勝静を外遊させてほとぼりを冷まさせるつもりだったが、藩内では財政状況が思わしくなかったことから不満が出て、すぐに明治政府へ自首・謝罪するように求めることになった。帰京した勝静は翌日自訴し、長男勝全と共に同族の治める上野安中藩に預けられて終身禁固刑となった。翌月、2万石減封されながらも松山藩は再興され、岡山藩による占領は終わった。

 板倉は、松平定信の孫として幕府〈徳川将軍家〉を見捨てることはできなかったのだ。残された松山藩士らは板挟みになって苦しんだのだ。

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