ホリショウのあれこれ文筆庫

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第212話 酔って候の山内容堂

序文・土佐の鯨は大虎で・・・

                               堀口尚次

 

 山内容堂(ようどう) は、幕末の外様大名土佐藩15代藩主。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁(すいおう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢候の一人として評価される一方で、当時の志士たちからは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。

 幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子(しし)〈世継ぎ〉が無かったため、容堂ほか四賢侯水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し、政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、隠居願いを幕府に提出し、幕府より謹慎の命が下った。

 容堂は、思想が四賢侯に共通する公武合体派であるが、単純ではなく藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。

 謹慎が解かれると、朝廷から参預(さんよ)に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く、短期間で崩壊した。その後薩摩藩主導で設置された四候会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を続ける。結局この会議も短期間で崩壊した。

 その後開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。会議冒頭の公卿の発言に対し、容堂は大声を発して議論をはじめ、「速やかに徳川慶喜を朝議に参加させるべきだ」と主張した。更に「300年近くも天下泰平の世を開いたのは徳川氏ではないか。それなのに、ある朝になったら突然、理由もなくその大きな功績ある徳川氏を排斥するとは何事なのか。恩知らずではないか。しかるに、二、三の公卿はどんな意見をもってこんな陰険な暴挙をするのか。すこぶる理解しがたい。恐らくは幼い天皇をだきかかえ、権勢を盗もうと欲する意図があるのではないか。まことに天下に戦乱の兆(きざ)しを作るものである」と、一座を睥睨(へいげい)〈にらみつけ〉し、意気軒高に色を成して主張したという。まさに酔って候(そうろう)。

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