ホリショウのあれこれ文筆庫

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第405話 参勤交代

序文・した~に した~に

                               堀口尚次

 

 参勤交代とは、江戸時代において各藩主である大名交代寄合(よりあい)〈旗本の家格の一つで広義の寄合に含まれる。江戸定府(じょうふ)〈定住〉の旗本寄合に対して、所領に住み江戸へ参勤交代を行う寄合〉を交替で江戸に出仕させる制度。参勤交代というとどうしても大名〈藩主〉のイメージだが、交代寄合という旗本〈幕府の直臣(じきしん)〉も対象であった。この場合は、いわゆる「大名行列」と呼べない?

 全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参勤自分の領地から江戸へ赴く旅〉し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代自分の領地に帰還する旅〉を行う制度である。鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、寛永12年に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。この制度では諸大名は一年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はなかった。自分の領地から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした。もっとも、武家諸法度に於いて家光は、「供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。」とあり、大名の過度な弱体化を防ぐため、幕府は参覲交代の際の支出を節減するように求めている。

 参勤交代は、こうした政治的統制の面だけでなく、江戸と国元の定期的な交流により文化・経済の交流にも大きな役割を果たした。なお、高野山金剛峯寺〉のように大名並みの領地を所有している寺社にも参勤交代に相当する「江戸在番」の制度があった。なお、水戸藩などのように参勤交代を行わない江戸定府の藩も存在した。また、参勤交代を行う大名は偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられた。隣国同士の大名は意図的に異なるグループに分けられたが、これは在国中あるいは江戸において談合などが出来ないようにしたものだと考えられる。

 徳川将軍家はこれほどまでに、諸大名〈親藩までも〉を警戒していたのだ。