ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1032話 父や兄を殺した斎藤義龍

序文・身内下剋上

                               堀口尚次

 

 斎藤義龍(よしたつ)〈大永7年または享禄2年- 永禄4年〉は、戦国時代の武将、美濃国戦国大名、道三流斎藤氏の第二代当主〈美濃一色氏初代とする説もある〉、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅう)〈役職的な身分の一つ〉である。

 大永7年、斎藤利政〈後の道三〉の長男庶子〉として生まれる。母は側室の深芳野。幼名は豊太丸、元服後は利尚、高政と名を変えている。

 天文23年2月22日から3月10日の間に、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となったとされる。この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。なお、天文17年相続説や、道三の隠居〈義龍稲葉山城を譲り、自身は鷺山城に移動〉は『美濃国諸旧記』で述べられているが、『信長公記』や『江美濃記』などの信頼性の高い史料に記述が無く、道三は隠居していないという説もある。

 その後、道三は義龍を「耄者(ほれもの)〈愚か者〉」と断じ、「利口者」の弟・孫四郎や喜平次らを溺愛するようになる。一方の義龍も、父の政策と立ち居振る舞いに対して不満と危機感を募らせていく。ついには道三が義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせたことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。

 弘治元年、義龍は叔父とされる永井通利と共謀して孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させたため、道三は大桑城に逃走した。なお、『美濃明細記』の分析により、実は喜平次のみは殺害を免れて生き延び、弟とされる利堯になったとする説があるが、この説は成立せず、やはり二人同時に殺害されたとするのが妥当とする反論がある。この生存説かつ同一人物説の根拠とされているのは喜平次と利堯が「玄蕃」という通称・仮名を用いていることである。

 弘治2年、義龍長良川にて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした長良川の戦い〉。また、明智氏など道三に味方した勢力も別動隊を用いた迅速な用兵でほぼ同時期に攻め滅ぼしている。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。