ホリショウのあれこれ文筆庫

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第760話 美濃の蝮・斎藤道三

序文・下剋上の象徴

                               堀口尚次

 

 斎藤道三 / 斎藤利政は、戦国時代の武将、美濃の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主。美濃の斎藤氏は、越前斎藤氏の庶流・河合系斎藤の赤塚氏が美濃目代(もくだい)〈遙任(ようにん)国司が現地に私的に代官として派遣した家人(けにん)などの代理人〉として越前から移り住んだのに始まるといわれる。家紋は撫子〈斎藤道三は二頭波頭立波を用いた〉。室町時代に美濃守護土岐氏に仕え、文安元年閏6月に、斎藤宗円が京都の土岐屋形で富島氏を誅殺し守護代となって勢力を揮(ふる)った。同族争いが再燃し斎藤家の勢力は徐々に衰えを見せ、庶流の長井氏が台頭した。

 天文8年頃、長井長弘の家臣・長井規秀が頭角を現し、斎藤氏を名乗った〈後の斎藤道三〉。道三の父・松波庄五郎は畿内の出身であり、妙覚寺にて日運の兄弟子であったという。

 道三は稲葉山城岐阜城〉主となり、さらに守護土岐頼芸(よりのり)を追い、下剋上によって美濃を押領(おうりょう)したが、弘治2年、嫡子義龍に殺された。義龍の早世後、子の龍興は永禄10年、本拠地稲葉山城織田信長に攻略され、美濃を追放されて越前の朝倉義景を頼った。龍興は天正10年に義景が信長に滅ぼされた時に運命を共にして討死、戦国大名斎藤家は滅亡した。北条早雲らと並ぶ下剋上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名国盗りにまで成り上がった

 天文23年に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺(さぎ)山城に隠居した。道三の突然の引退は家臣達により強制的に行われたと思われる。道三は、当時他の戦国大名が次々に打ち出している民政の新しい施策に匹敵するものの片鱗すら行うことができず、国内統治者および主君としての資格なしと家臣に判定されたのである。

 現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八織田信長」といった小説の影響により、美濃の蝮(まむし)という綽名(あだな)でも知られる。〈ただしこの異名は同時代の資料には一切記録されておらず、小説の創作である〉

 岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年から岐阜市にて毎年4月上旬に「道三まつり」が開催されている。なお、岐阜城内に展示されている道三の画像には、信長室寄進の文字が確認される。