ホリショウのあれこれ文筆庫

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第730話 守護大名と守護代そして戦国大名

序文・正に下剋上

                               堀口尚次

 

 守護大名は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代守護を表す日本史上の概念守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。

 応仁の乱の前後から、守護大名同士の紛争が目立って増加した。それに歩調を合わせるように、国人層の独立志向〈国人一揆など〉が顕著に現れるようになった。これらの動きは、一方では守護大名の権威の低下を招いたが、また一方で守護大名による国人への支配強化へとつながっていった。そして、明応2年の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護大名は、守護代・国人などにその地位を奪われて没落し、逆に国人支配の強化に成功した守護大名は、領国支配を一層強めていった。

 こうして室町期の守護のうち領国や家中の統一に成功した守護や、守護家に代わり地域支配を成し遂げた守護代・国人は、独自の領域支配や軍事・外交的行動を行う戦国大名へと変質・成長し戦国大名の出現をもって「戦国時代」の時代呼称が行われている。

 守護代とは、鎌倉時代室町時代に守護の下に置かれた役職である。守護の職務を代行した職種を指す。広義には代官の一種であるが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を代官といい、守護の代理人たる守護代と代官は区別された。

 守護は、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かった。複数の国を兼任する守護の場合、兼任した国を視察する機会はさらに少なかった。このため守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。これが守護代である守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。また、一国に2人以上の守護代が居ることもあり、このような場合は「分郡守護代」の体制をとった。

 室町時代に入ると、当初は守護の一門やその傍流、或いは重臣、または守護国内の有力武士〈国人〉が任じられることが多くなり、次第に世襲化していくと、守護に代わって実質的統治者になっていった守護代室町幕府より守護の白傘袋(しろかさぶくろ)、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)、及び塗輿(ぬりごし)の格式に次ぐ、唐傘袋(からかさぶくろ)、毛氈鞍覆、及び塗輿の使用が認められる格式を与えられ、国人よりも一等高い地位にあった。

 いっぽう、荘園の崩壊による惣(そう)の発達によって在地土豪や国人層の社会的地位が上昇し諸国で紛争が発生すると、領国を一元的に支配する傾向が顕著になって戦国大名が成長し守護大名とともに守護代は消滅していった。ただし越後の長尾氏、越前の朝倉氏や、尾張織田氏、阿波の三好氏、備前の浦上氏、出雲の尼子氏のように、守護代戦国大名化した事例も全国的に見られる。

 尾張国守護大名は斯波(しば)氏で、守護代織田氏であった。尾張だけではなく。越前・遠江(とおとうみ)などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、尾張織田氏に擁されるも戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した。このように、室町時代は守護の代理人としての地位に過ぎなかった守護代の地位は戦国時代の幕開けとともに、主君を追い、取って代わる存在へと変貌していった

 一方で、戦国大名化に一時的に成功するも、やがてその家臣により失敗した例も多く存在する。尾張国守護代織田信友も主君である斯波義(よし)統(むね)を傀儡の守護として奉じ、自らの尾張国内での優位性と勢力拡大の大義名分に利用していた。しかし、やがて対立するようになった主君を自害に追うものの、傍流にして家臣でもあった、織田信長に主殺しを咎められ攻め滅ぼされた。

 守護大名室町幕府より守護に任じられたという権威を根拠とする事により支配を行い、守護職令制国単位であるため、その支配も守護に任じられた令制国内に限られたのに対して、戦国大名は、下剋上により従来の守護を打倒するなど、その実力によって領国支配を確立して軍事行動や外交などを独自の権限で行った。そのため戦国大名の領国は令制国単位に限られず、領国拡大を行い複数の令制国にまたがる勢力圏を確立したり、あるいは令制国内部の一定領域において独立した支配権を確立した。戦国大名などの地域権力による領国拡大化が進展すると大名領国同士が接し、戦国大名家は相互に同盟関係を結び、また境界などをめぐって合戦を繰り広げた。こうした状況のなかで尾張国織田信長は当初室町将軍を推戴しつつ、間接的に天下人である室町将軍の公権を用いて影響力を強めていたが、やがて室町将軍を追放しつつも天下人の地位を保ち、他大名家への影響を及ぼし続けた〈織田政権〉。