ホリショウのあれこれ文筆庫

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第822話 有力守護大名・斯波氏の家格と末路

序文・驕れる者は久しからず

                               堀口尚次

 

 斯波高経(しばたかつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。越前・若狭・越中守護。足利氏の有力一門・斯波氏〈足利尾張守家〉4代当主。なお、高経自身はその存命中に斯波姓を自称したことも他称されたことも無く、足利氏の別家〈足利尾張守家〉当主として終生足利の名字で呼称されたため、現在も足利高経と呼ばれることも多い。

 斯波氏は足利本家4代当主の泰氏の長男・家氏から始まる名門で、成立当初より「足利」の名字を公称し、家氏以降の代々の当主が尾張守を称したため足利尾張守家〈足利尾張家〉と号するなど、他の足利一門とは一線を画す高い家格を有した。このため「足利家の庶家〈庶流〉」というよりは「足利家の別家〈別流〉」の扱いであり、高経自身も当時の史料において足利尾張守高経などと足利姓で表記される。

 また足利本家から独立した御家人であったため、高経の「高」字は尊氏の初名である「高氏」とおなじく北条得宗家の北条高時偏諱(へんき)である〈高経と尊氏は同年生まれ〉。室町幕府が成立すると4男義将が管領(かんれい)となり、高経はその後見をつとめた。本格的に「斯波氏」を称するのは足利本家の家臣となった義将以降〈但し戦国期に至っても史料上では依然として斯波姓で記述される例は殆ど確認できない〉のことである。以後、室町時代を通して三管領の筆頭となった。高経は、足利一門中最高の家格を持ち、将軍家と同格と自負する斯波家の当主として非常に誇り高かったとみえ、細川清氏の後任として幕府の執事〈後の管領〉職に推された際に、「執事は家人の高氏(こうし)や外戚の上杉氏などがなるべきであって当家には相応しくない」と難色を示したという。しかし、結局は自身の子である義将を執事職に就ける形でこれを受け入れ幕府の実権を握った。

私見】こうして室町幕府の中枢に上り詰めた斯波氏であったが、幕府の政務が忙しくなり、尾張守護代である「織田氏」に任せるようになる。そして足利将軍が形骸化する中、各地の守護代が台頭し、自らの地位を危うくしてしまったのだ。足利氏にしても斯波氏にしても源氏の名門として君臨していたのだが、結局身内での骨肉の争いや、家格への拘りが敗北の原因ではなかろうか。ここでも平家の失敗が生かされていないのだ。「驕れる者は久しからず」