序文・今川→武田→徳川
堀口尚次
奥平信昌は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。上野小幡藩初代藩主、後に美濃加納藩初代藩主。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康に娘婿として重用された。三河国作手(つくで)の有力国人・奥平貞能(さだよし)の長男。奥平氏は祖父・貞勝の代までは今川氏に属していたが、桶狭間の戦い後に三河における今川氏の影響力が後退すると、家康の傘下となり遠江(とおとうみ)掛川城攻めに加わった。
元亀4年ごろ、家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平氏を味方に引き入れることを考え、奥平氏に使者を送ったが、奥平貞能の返答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は織田信長に相談。信長は「家康の長女・亀姫を貞能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきたので、家康はその意見を入れ、貞能に亀姫と貞昌の婚約と領地加増を提示した。貞能は家康に武田信玄の死が確実なことと貞能・貞昌親子が徳川帰参の意向を持っていることを伝えた。その後、亀姫との婚約を提案された貞昌は、武田家に人質として送っていた妻おふうと離縁。しばらくして徳川氏の家臣となった。武田勝頼は、貞昌の元妻おふう〈16歳〉・貞昌の弟仙千代〈13歳〉など奥平氏の人質3人を処刑した。
奥平氏の離反に武田勝頼は、天正3年5月に1万5,000の軍を率いて長篠城へ押し寄せた。貞昌は長篠城に籠城し、家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させて、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍の分遣隊が包囲を破って救出に来るまで武田軍の攻勢を凌ぎきった。その結果、同月21日の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍は武田軍を破り、勝利をおさめることができた。この時の戦いぶりを信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改めた。
慶長6年3月には、関ヶ原の戦いに関する一連の功として、上野国小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。慶長7年、加納で隠居し、三男・奥平忠政に藩主の座を譲った。
慶長19年には、忠政と下野国宇都宮10万石の長男・家昌に先立たれるが高齢を案じられてか、息子たちに代わる大坂の陣への参陣を免除された。そこで、唯一参戦した末男・松平忠明の下へ美濃加納の戦力だけは派兵している。翌年3月に死去した。奥平信昌と亀姫夫妻の墓は、加納城跡近くの盛徳寺にある。