ホリショウのあれこれ文筆庫

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第847話 悲劇の少女「於ふう」

序文・処刑された許嫁

                               堀口尚次

 

 於(お)ふうは、二代目日近(ひぢか)城主・奥平久兵衛貞友の娘であり、奥平信昌(のぶまさ)〈徳川家康の長女・亀姫の夫〉の前妻で、武田氏へ人質として出されていたが、奥平が徳川方に寝返ったために武田勝頼によって処刑された。

 於ふうは、元亀元年13歳のとき、貞昌(さだまさ)〈奥平信昌の旧名〉の弟・仙千代丸10歳、奥平周防守(すおうのかみ)勝次の息子・虎之介13歳とともに武田勝頼へ人質に出された。貞昌が徳川へ寝返ったため天正元年9月21日、縄をかけられ甲州山梨県〉から鳳来寺に送られ、16歳で見せしめとして山県昌景武田四天王の一人〉により磔(はりつけ)にされる

 ふうの処刑地はコオリ坂〈愛知県新城市玖老勢地造入(くろぜじぞうのいり)〉という場所で、現在の鳳来寺小学校から南側に旧道を通り旧田口鉄道をくぐった左側。「於フウ処刑の地」の碑があり、坂の上には墓も建てられている。仙千代丸〈鋸引〉と虎之介〈磔〉も同日別々の場所で処刑されている。

 処刑された3人の首は鳳来寺山麗にさらされたが、おふうの乳母で祖母の貞子姫と柳田専念寺の僧永順と百姓助左衛門らにより奪還され、生まれ故郷の日近城〈広祥(こうしょう)院 現岡崎市桜方町〉に貞子姫、仙千代と並んで埋葬されている。

 於ふうの物語の悲哀は13歳で人質として親元を離れ、甲州での生活3年、郷里に戻されてすぐ16歳で亡くなったということもあるが、彼女の場合「実は貞能(さだよし)の長子〈嫡男〉貞昌〈後の信昌〉の許嫁(いいなずけ)だった」とも言われている。当主の奥方が人質に行くというならいがある中、貞能の奥方の病弱に息子の許嫁が駆り出されることがあったのかも知れない。武田側の人質選定の意向が重視されるので十分にあり得る話だ。

 於ふうの悲劇は、作家山岡宗八氏の作品「於ふうの賭け」中村歌右衛門が「賭け玉虫」という五幕の劇にして歌舞伎で演じた。

 因みに幼妻〈許嫁〉を見捨て、長篠城を守り抜いた奥平信昌はその後、家康の長女・亀姫を正室にもらい、江戸時代には徳川将軍家の親戚筋として明治まで大名として存続した。

私見】若き日の奥平信昌も、大変な葛藤があったのだろう。一族を守り抜くために究極の決断を迫られたのだ。乱世とはいえ血も涙もない。嗚呼諸行無常