序文・死去の謎
堀口尚次
穴山信君(あなやまのぶただ)/武田信君は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。穴山氏7代当主。
壮年期〈天正8年頃〉に剃髪して梅雪斎不白(ばいせつさいふはく)と号したので、穴山梅雪の名でも知られる。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。信玄末期より仕え勝頼期にも重臣として仕えたが、織田信長の甲斐征伐が始まると武田氏を離反した。
天正8年、出家し梅雪斎と号した。天正9年12月、勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らを憎み、織田信長に内通し始め、翌年2月、勝頼が娘を信君の嫡男に娶らせる約束を反故にして武田信豊の子に娶らせるとしたことに激怒して、家康に降ったという話が、飯田忠彦〈幕末歴史家〉の『大日本野史』にある。
天正10年、織田信忠の甲斐侵攻に際しては、2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐一国の信君への拝領と武田氏の名跡継承を条件に、2月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応した〈『家忠日記』、『信長公記』、『記録御用所本子文書』〉。 その結果、信君は織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられた。
同年5月には信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土〈滋賀県近江八幡市安土町〉において信長に謁見する。堺〈大阪市堺市〉を遊覧した翌日の6月2日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の死〈本能寺の変〉を知り、家康と共に畿内を脱しようとするが、宇治田原で郷民一揆の襲撃を受けて亡くなった。『家忠日記』では自害、『信長公記』では一揆により生害されたと伝えられ殺害と自害の両方の意味がある。
信君は武田滅亡に際して武田家再興を名目に主家から離反しているが、同じく信玄の娘婿でありながら織田家に寝返った木曽義昌や郡内領主の小山田信茂らと共に主家から離反した行動に関して、これを謀反とする否定的評価がある。