ホリショウのあれこれ文筆庫

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第749話 家康と土井利勝の関係

序文・家康の落胤

                               堀口尚次

 

 土井利勝は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、譜代大名江戸幕府の老中・大老下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。元亀4年3月18日、水野信元庶子として生まれる。徳川家康の母方の従弟にあたる。

 土井氏の系図には徳川家家臣・土井利昌〈小左衛門正利〉の実子と記載されている。この場合、遠江国浜松城〈現在の静岡県浜松市〉生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある。

 天正3年、父・信元が佐久間信盛の讒言(ざんげん)で、家康やその同盟者で信盛の主君である織田信長と敵対していた武田勝頼旗下武将秋山信友と内通したという嫌疑〈秋山が占領していた岩村城への水野領からの兵糧売却〉をかけられ、三河国大樹寺において信長の命を受けた家康配下の平岩親吉によって殺害されると、家康の計らいで土井利昌の養子になった。利昌には実子で長男の元政がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。

 利勝には家康の落胤(らくいん)という説がある。『視聴草』には家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩に随行することを許されるなど〈土井家は三河譜代の家臣ではない〉、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれた、という可能性も否定できないところがある。

 寛永12年、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となって、その藩の指導を行った。寛永14年頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。