ホリショウのあれこれ文筆庫

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第207話 高須四兄弟の長兄・徳川慶勝

序文・幕末を影で支えた徳川慶勝

                               堀口尚次

 

 松平義建(よしたつ)・美濃国高須藩尾張藩支藩〉10代藩主を親に持つ子は11人おり、その内の次男・慶勝(よしかつ)〈尾張徳川家14代当主〉、五男・茂徳(もちなが)〈一橋徳川家10代当主〉、七男・容保(かたもり)〈会津松平家9代当主〉、八男・定敬(さだあき)〈桑名松平家4代当主〉を『高須四兄弟』と呼ぶ。因みに慶勝は、徳川最期の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の従兄弟(いとこ)にあたる。

 幕末維新史の中で、目立たない徳川慶勝だが、徳川御三家筆頭の藩主としての位も「大納言」と高く、新政府の議定〈副総理格〉にも任命されている。徳川御三家筆頭ながら、早くから尊皇側〈新政府側〉に旗幟(きし)〈表立って示す立場や態度〉を鮮明にし、従兄弟の将軍・徳川慶喜は元より、弟である会津松平容保や桑名・松平定敬を、敵として戦う事となった。茂徳〈慶勝の次の尾張藩主〉とも尾張藩の中での抗争を繰り広げていた。このように、高須四兄弟は、不運にも兄弟が互いに敵対する関係になってしまったのだ。

 但し慶勝は、大政奉還後の王政復古で新政府が決定した、徳川家の領地没収や慶喜の官位剥奪(はくだつ)などに対し、代替案を示すなどして徳川家や慶喜に対しての救命活動を工作していたのだ。その一方では、朝廷〈岩倉具視〉からの命令もあり、諸藩に対して尊皇に恭順する〈佐幕(さばく)=旧幕府側につかない〉ように誓約書を取付けるという重要な役割も果たしている。

 徳川御三家筆頭の尾張藩主・徳川慶勝が、佐幕側〈旧幕府側〉についていたとしたら、戊辰戦争はもっと大きな日本の内乱〈内戦〉になっていただろう。

 第2話の幕末・尾張藩「青松葉事件」で詳細は記したが、慶勝自身も尾張藩における佐幕派の粛清(しゅくせい)事件という苦い経験、苦渋(くじゅう)の選択の道を経ている。

 尾張藩は、徳川御三家筆頭でありながら、将軍も一人も出していないし、尾張藩出身者から新政府での要職に就いた者もいない。

 私の分析では、徳川家康は、徳川家の権力支配の系図を変えることなく、しかしながら、権力が集中しすぎることを恐れ、御三家・御三卿・御連枝・御家門などに権力を分散させ、実務の政治は譜代大名や旗本にやらせるというシステムを創り上げたのだと思う。その一旦として、御三家には幕府から派遣された御附(おつけ)家老〈大名格〉なる家老職があり、いわば御三家大名を監視させていたのだ。尾張藩主・徳川慶勝もこの仕組みに翻弄(ほんろう)された一大名だと思う。

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