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第755話 越前松平家の祖・結城秀康

序文・徳川家康の次男

                               堀口尚次

 

 結城秀康、松平秀康、天正2年 - 慶長12年は、日本の武将、大名。越前国北荘藩初代藩主。徳川家康の次男。越前松平家の祖。豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康を、結城晴朝の養子となり結城秀康を名乗り、関ケ原の戦い後、松平姓に復した

 天正2年、徳川家康の次男として遠江国敷知郡字布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於萬の方〈長勝院〉。幼名は於義伊と名づけられた。天正7年、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・松平信康切腹させられる〈近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる〉。 

このため、次男である結城秀康は本来ならば徳川氏の次の後継者となるはずであった。

 しかし、天正12年の小牧長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、結城秀康は秀吉のもとへ養子〈徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質〉として送られ、家康の次の後継者は異母弟の長松〈後の徳川秀忠〉とされた。母親の身分は徳川秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。

 伏見城において行われた徳川秀忠将軍就任祝いの席で上杉景勝結城秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼をもって上杉景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。結局、徳川秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は結城秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという

 秀康の子の5人の男子は徳川将軍家の御家門〈越前松平家〉となっており、現在も各子孫が続いている。また、越前松平家御三家などの序列とは別格の制外の家とされた

 この特例は、秀忠の兄として遇された秀康1代限りのものとされたが、各藩は徳川将軍家の兄の家系という意識を持っていた。また、福井松平家の家格は、いわゆる親藩大名中でも高いほうである。ほかに糸魚川松平家・雲州松平家・明石松平家・前橋松平家・津山松平家などが存在した。幕末に活躍した、政治総裁職の松平春嶽もその一人である。