ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第756話 日独戦ドイツ兵捕虜

序文・捕虜が育てた日本の産業

                               堀口尚次

 

 日独戦ドイツ兵捕虜とは、第一次世界大戦中の日独戦争で、中華民国の青島(チンタオ)および南洋群島等で連合国軍捕虜になり、日本に収容された約4700名のドイツ軍およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵および民間人

 第一次世界大戦中の大正3年8月23日に、日本はドイツ帝国に宣戦布告し、日独戦争が始まった。青島の戦いでドイツ軍は11月7日に日本軍に降伏し、約4500名が捕虜〈当時の陸軍用語で「俘虜(ふりょ)」〉となった。後に南洋群島等からの捕虜がこれに加わり、総勢約4700名が収容された。青島で投降たドイツ軍将兵が3,906人だったのを、4千人の大台に乗せるために在留民間人が員数合わせで捕虜に加えられた。

 ドイツ側の降伏後すぐに、東京では政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する「俘虜情報局」が開設された。捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、久留米、東京、名古屋、大阪、姫路、丸亀、松山、福岡、熊本、静岡、徳島、大分の12カ所に開設された俘虜収容所に収容されることとなり、順次日本に移送された。

 日本側にとって、ドイツ側の降伏は予想以上に早いものであった。そのため想定以上の人数を収容する必要が生じ、当初は捕虜受け入れの態勢が不十分で、捕虜たちは寺院、公会堂、校舎、病院跡地などに設置された仮設収容所に収められた。それらは劣悪な環境が多く、食料供給も乏しく、略奪や逃亡者も発生。将校クラスの者たちも特別待遇を受けることはなかった。

 日独戦は早期に終結したが、ヨーロッパにおける戦争が長期化したため、長期収容に備えた施設が建設されることとなる。新しい俘虜収容所の準備が整い次第、捕虜は段階的に仮設収容所から移送されていった。

 陸軍省は、1904年 - 1905年にロシア人捕虜に関する規定を決め、捕虜に対する人道的な扱いを定めた。これは1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例であった。捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会により人道的であると認められた。しかし一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方は依存していたため、収容所側の日本人の態度とドイツ人捕虜内の世論は場所によって様々に異なっていた。しかし同時期の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるもので、関係機関の指導により環境の改善もなされた。

 捕虜の脱走未遂発生のため、1915年以降は戦争俘虜に関する規定が厳格化。また現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとったために、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあった。脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、収容所の職員たちもまた管理体制を厳しくした。

 宿舎はたいてい学校、寺院、労働者寮、災害時用の質素な住居、退去後の兵舎で構成されていた。トイレの不足や害虫・ネズミの発生、日本人向けの住居構造ゆえの窮屈さ、寒さ、などが問題点として報告された。将校は単独で別個の家に収容され、一般兵より好待遇を受けた。

 医学的処置は現代の水準からすると不十分だったと言わざるをえないが、病気や怪我などの身体的苦痛と並んで、多くの入院患者は無為な日々と、閉所恐怖症によって引き起こされた精神障害に悩まされた。これは俗にいう“有刺鉄線病”であったといわれている。1918年の秋には世界中でスペイン風邪が猛威をふるい、収容所内でも多くの感染者が出た。

 一部の収容所では、捕虜の持つ技能を日本に移植することを目的に、捕虜を日本人の経営する事業所に派遣して指導をおこなわせた。名古屋俘虜収容所の捕虜の指導で製パン技術を学んだ半田の敷島製粉所は、これをもとに敷島製パンへと発展することとなった1920年に敷島製粉所から敷島製パンが発足する際、元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘している。また、板東俘虜収容所のあった鳴門市内には、捕虜から製法を学んで創業したパン店『ドイツ軒』が現在も営業している。明治屋は1922年に、元俘虜のバン・ホーテンやヘルマン。ウォルシュケを雇ってソーセージ製造を開始した。

 1919年12月末より翌1920年1月末にかけて、ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の本国送還が行われた。約170人が日本に残り、収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んだ。 一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎された。収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられる。