ホリショウのあれこれ文筆庫

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第720話 謀反の大賀弥四郎と山田八蔵

序文・謀反の謀反

                               堀口尚次

 

 大賀(おおが)弥四郎は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。徳川家康の嫡男・松平信康の家臣だったが、謀反を計画したために処刑された。正しくは大岡氏〈大岡弥四郎〉であるとする見解が有力である。

 『三河物語』は弥四郎は譜代の「御中間(おちゅうげん)」であったとし、岡崎城松平信康の下で町奉行を務めていたという。その後渥美郡20余郷の代官に任じられた。『徳川実紀』によれば民政や算術に長けたために抜擢を受け、浜松城岡崎城を往来して家康・信康双方に仕えたという。また家康が老臣らの諫めを聞かずに鷹狩りに熱中した際、弥四郎のみは家康に扈従(こじゅう)したのだという。

 『伝馬町旧記録』によれば、天正2年頃までに弥四郎や松平新右衛門らは一揆契約を交わし、武田勝頼に内通してその侵攻を幇助(ほうじょ)しようとしていたという。その与党には信康家老鳥居氏の陪臣・小谷甚左衛門(こやじんざえもん)、他に倉知平左衛門らがいた。『三河物語』はその計画について以下のように記している。弥四郎は家康が到来したと偽って岡崎城に呼びかけて開門させる。その隙に武田軍は東三河から岡崎へ侵攻して城を占領し、城主の信康を自害せしめる。また岡崎在留の諸士の妻子を人質に取って徳川家臣団を服属させ、進退窮(きわ)まった家康やその家臣らは所領を落ち延びるだろうから、これを待ち伏せて討ち取る。以上の内容の書状を勝頼に送り、その同意を取り付けたとしている。一方で『岡崎東泉記』によれば、武田氏が遣わした歩き巫女(みこ)が岡崎城中にまで浸透し、信康生母の築山殿にまで達していた。築山殿は信康を国主とするという武田氏の提案に乗じ、謀反に参画していたのだという

 山田八蔵重英(しげふさ)は、岡崎家老鳥居氏の陪臣だったが、同輩の小谷氏に誘われて弥四郎の一党に加わっていた。しかし重英は後に翻意して謀反の事実を岡崎城の信康に通報した。信康は当初信用しなかったが、重英の提案で家来に密談を間諜(かんちょう)させたため事は露見した。また『伝馬町旧記録』によれば家康は事前に一揆の風聞(ふうぶん)を掴んでおり、信濃国へ出入りする塩商人に申し付けて事情を探らせていたのだという。なお『徳川実紀』は別に以下の話を載せる。家康・信康父子から異例の寵愛を受けていた弥四郎は増長し、岡崎城家老たちすら異見できないほどの権威を着ていた。ある時近藤壱岐という譜代の武士が加増となった際、弥四郎は自分が執り成しをしたためであると放言したため、近藤は怒って加増を辞去することを申し出た。この騒動を知った家康は近藤から弥四郎の専横を知り、弥四郎の罪を問うて家財を没収した。その中に武田勝頼に内通する書状が発見されたのだという。

 弥四郎は捕らえられて岡崎及び浜松城下において引き回しの上、鋸挽きの刑に処され、弥四郎の妻子は磔となった。同輩の松平新右衛門は大樹寺において自害し、小谷甚左衛門は討ち取られ、倉地平左衛門は甲斐国へと逃れた。また事件には不関与だった弥四郎同輩の江戸右衛門七も責任を問われて詰め腹を切らされた。一方で山田重英は返り忠を賞されて加増を受けたという。

 当時の徳川領情勢として武田氏の軍事的優勢が指摘されており、『岡崎東泉記』にあるように松平氏譜代の岡崎家臣団が信康を三河の新国主として武田氏に寝返ろうとする可能性は十分に考えうる。この事件は家中の動揺を抑えるため、大賀弥四郎一党が起こした騒動という小事件として処理されたが、後年武田氏に対する軍事的優勢に転じた事によりようやく信康と築山殿の処分という形で岡崎処分が完遂されたという見解もある。また『三河物語』が述べるように、同年5月の長篠の戦いは、大賀弥四郎らの内通によって武田軍が侵攻の機を得たものとする説もある。

 山田重英(しげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武士。徳川家康の家臣。

尾張源氏の一流である山田氏の末裔で、『岡崎東泉記』によれば家康の嫡男である岡崎城松平信康重臣・鳥居久兵衛の家臣だったという。永禄6年三河一向一揆蜂起の際には戸田忠次・鳥居重正らとともに佐々木の上宮寺に入って一揆方に与している。

 天正3年同輩の小谷甚左衛門に誘われ、大賀弥四郎らの計画する武田氏内通の謀議に加わる。しかし重英は途中で思い直して事の次第を信康に報じ、大賀弥四郎らの陰謀を事前に食い止めることとなった。この功により碧海郡柿碕に500石の加増を受け、また「訴人(そにん)八蔵」の異名があったという。後に同郡大浜や額田郡上地も加増されたが、天正16年岡崎で同輩の渥美弥三郎と口論の末に殺害されたため、所領はすべて没収となった。天正17年養子の重次が仇討ちを果たした事が認められ、その翌年に300石を与えられて家名を再興した。

 現在の愛知県安城市柿碕に、山田八蔵の塚として伝わる「柿碕村古屋敷跡」という祠が残る。