ホリショウのあれこれ文筆庫

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第728話 平岩親吉〈七之助〉の苦悩

序文・家康の側近から信康の側近へ

                               堀口尚次

 

 平岩親吉(ちかよし)〈七之助は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上野国厩橋藩前橋藩〉、尾張国犬山藩主。官位は従五位下・主計頭。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。

 天文11年、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村〈現在の愛知県額田郡幸田町坂崎〉にて誕生。徳川家康と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従った。天文16年、小姓として駿府に送られた。

 永禄元年に初陣する。家康の信任は厚く、三河統一戦や遠江平定戦などで戦功があり、家康の嫡男・松平信康元服すると、その傅役として信康を補佐した。しかし天正7年、織田信長により信康の切腹が家康に要求されると、親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし信康の処断を防ぐことはできず、その責任を感じて蟄居謹慎する。後に家康に許され、再び直臣として復帰した。だが、信康切腹が信長の命令によるものという通説には疑問点も多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説が出されている。

 親吉は、天正4年12月、信長の命を受けた家康の命を受けて、家康の母方の伯父・水野信元父子を誅殺している。信元は、天正3年12月、信長の武将・佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、信長の命を受けた甥家康によって三河大樹寺において殺害され、同時に養子の信政も養父とともに斬られた。 墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳(りゅうごん)寺

 法名は信元院殿大英鑑光大居士。刺客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。案内役をしていた久松俊勝〈水野信元の義弟〉は「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」と述べて、出奔してしまう。夫に出奔された妹の於大の方とその子供たちは、家康の下に引き取られた。兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、これが後の家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清や石川数正の出奔の原因と考える人もいる。