ホリショウのあれこれ文筆庫

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第752話 悲運の松平信康(徳川家康長男)

序文・血統の因果

                               堀口尚次

 

 松平信康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康長男〈嫡男〉。母は関口親永〈瀬名義広〉の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に安祥松平家の居城の岡崎城主〈愛知県岡崎市〉を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。

 一般的には松平信康と表記されるが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年に既に徳川に改姓しているため、生前は徳川信康と名乗っていたのではないかとする説もあった。江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は徳川将軍家と御三家・御三卿のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「岡崎三郎松平信康」に格下げされたという説である。

だが織田信長佐久間信盛に宛てた天正3年6月28日付書状の中において、娘婿の信康を「松平三郎」と呼んでいることが明らかになり、家康が徳川姓に改称した後も信康は松平姓のままだったことが判明した。

 永禄2年3月6日、駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。

 永禄5年、家康と織田信長による清須同盟が成立する。永禄10年5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城浜松市中区〉に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年に正式に岡崎城主となる。

 天正7年8月3日、家康が岡崎城を訪れた翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された〈『家忠日記』〉。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。享年21〈満20歳没〉。信康の首は舅である信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られた。

 なお、岡崎城から信康を出した後に松平家忠をはじめとした徳川家臣たちは「信康に通信しない」という起請文を書かされている〈『家忠日記』〉。尊経閣文庫の『安土日記』〈『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの〉によると「岡崎三郎殿、逆心の雑説申し候。家康並びに年寄衆、上様〈信長〉へ対しもったいなく申し、御心持ちしかるべからずの旨、異見候て、八月四日に三郎殿を国端へ追い出し申し候」とある。同年8月8日に堀秀政宛に家康は「今度左衛門尉〈酒井忠次〉をもって申し上げ候処、種々御懇ろ之儀、其の段お取りなし故に候。忝き意存に候。よって三郎不覚悟に付いて、去る四日岡崎を追い出し申し候。猶其の趣小栗大六・成瀬藤八〈国次〉申し入るべきに候。恐々謹言」としている。

 信康の切腹については幕府成立後の所謂徳川史観による『三河物語』が通説化している。それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺(ただ)したが、忠次は信康を全く庇(かば)わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した

 家康はやむをえず信康の処断を決断。8月29日、まず築山殿が二俣城〈浜松市天竜区への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた

 信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、服部正成〈半蔵〉の介錯で自刃したという。この時、正成が刀を振り下ろさず、検死役の天方通綱〈山城守〉が急遽介錯、結果として通綱は家中に居場所を失い出家したと言われる〈『柏﨑物語』〉。

 信康の死後、家康は信康の廟所として清龍寺を建立し、寺域には胴体が葬られた信康廟が現存している。首塚を祀った若宮八幡宮では信康は祭神となっているほか、信康と関係が深かった者により複数の寺院等が建立されている。

 尚、江戸幕府最期の将軍・徳川慶喜は、この松平信康の子孫にあたる。